7.夏の夜、赤坂

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7.夏の夜、赤坂

「由良、結婚するかもだってよ。」 貴久が気軽に誘ってくるようになって三回目の今夜、八月の気持ちの良い赤坂の開放的なテラス席で、そのニュースを聞いた。 「へえー。」 Sauvignon blancのグラスを持ったまま答える。黄緑色で美しいそれが人工的な夜のライトの元では台無しだ。 「相手はうちの新人、エリも見たことあるかもな。」 「ああ、あの小さくて素直そうな、髪の毛フワフワの彼女?廊下で呼んでるのを見たことあるかも。」 「ん。白川って言うんだけど指導医が由良で。よくなついてたんだよな。ま、由良だからわかるだろう?」 言葉が見つからずにただ頷いた。 「白川ってさ、見た目華奢なんだけど、うちを志望するだけあってタフでさ。結構戦力。」 「それは良かったね、センター長としては。」 「ん、助かる。ほら、俺がいない時は一気に由良に責任がかかってたから。あいつタフだけど、やっぱツートップじゃ負担半端ないし、もしもの時に回せない。」 「確かに。リスク管理としては出来るだけ分散しときたいよね。うちだってさつきはいるし勿論部長もだし。いけ好かないとは言え副部長もその他大勢いるしね。消化器内科は安泰。」 「あー何かなあ、層の厚さが半端ないよな、消化器とうちじゃ。」 「ごめんねー、フロントラインで戦ってくれてんのに。」 真夏の明るい藍の夜に、貴久に向かってこんな言葉を飛ばしてるなんて、いまだに信じられない。軽くその夜空に向かって伸びをする。途端にカラスと言ったことを思い出して顔をしかめた。まだそこここに記憶が残っている。 「エリさ、」 貴久がもうとっくに飲み干したビールのジョッキを名残惜しそうに見てから言った。 「うん。」 「もういいの、ほんとに由良のこと?」 「何回目?っていうか、貴久こんなにくどかったっけ?」 「いや。」 「だよね。皆の憧れのミスターERは常に前進あるのみ、でしょ?」 サンキュと言いながらその整った顔をほころばせる。だからその顔に免じてもう一杯生を追加注文してあげた。 「貴久、幾つになったっけ?」 「エリの二個上だろーが。」 「46か。ねえ、今だから訊くんだけど、」 「うん。」 「子どもとか欲しくなかったの?」 虚を突かれたような顔を一瞬してそれから夜空を仰いだ。一つ息をしてこっちに向き直る。 「エリとの子どもってことなら、うん。」 「ええっ?だってそんなこと、一度だって言わなかったじゃない。」 本気で驚愕すれば、 「いやだって、仕事に頑張ってるエリ見たら言えないだろう。妊娠してくれとかって。」 テーブルに目を落としながら言う。 「して欲しかったんだ?」 「当たり前だろ?まあ最後が最後だけに俺が言うことは全部信ぴょう性がないかもしれないけど。でも俺は本気で君のことを想ってたから。」 ああ…何でこうボタンを掛け違えるんだろう。もしも貴久が口を開いていたら、私が少しでも彼の気持ちを考えていたら、全く違う未来が見えていたかもしれないのに。一生懸命生きて仕事して愛して。なのに何ですれ違ってしまったのだろう。 「前にも言ったかもしれないけど、でも私も貴久のこと、本当に、本当に好きだったよ。」 貴久はその大きな二重でじっとこちらを見て、それから頷いた。 「エリ、」 「うん何?」 「後悔は一生に一回あれば良くないか?」 「え?」 「俺は人生で最大の後悔がエリだよ。」 「ああ。って言うか、浮気したよね?」 「申し訳ありません。」 頭を下げてくる。 「そう言えば今まで訊いたことないけど、その彼女とはどうなったの?」 「あれはワンナイトスタンドで、翌日にはもう別れました。」 「ええっ、そうなの?肉欲オンリー?」 ああ、それちょっとあからさま過ぎるし、とか頬を赤くしている。 「ナイスボディ?」 んーどうだったかな、もう昔のことだしととぼける貴久がいじらしい。 「貴久、幸せになってね。」 「それ、なんかもう何回も聞いた気がするけど。」 「だってやっぱり大好きだもの。」 照れたような沈黙があってから、小声でサンキュと聞こえてきた。 「なあ、もう一度訊くけど、例えば由良が子どもとかはいいから君といたい、って言ったらどうする?」 「そう言わせてる時点で失格だよね、私。」 「そんなのわからないだろ。皆が皆子ども好きってわけじゃねーし。別にそれでもいいだろ?」 「ん…ありがとね。でももうあの人はその白川さんと幸せになった方が良いって。それに最後に会ってからもう半年も経つし。こうやって薄れていけば良いんだよ。一年とか経てば、私なんてあの人のコレクションの中に埋もれるって。あ、もしかしたら短すぎて入れてもらえないかもだけど。」 あはは、と勢いよく笑うつもりが尻つぼみになってしまった。
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