7.夏の夜、赤坂

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「勝手に決めんな。」 え?何で後ろから声が聞こえてくるの?貴久は目の前にいるし、口を閉じているのに。また幻聴なんだろうか、この間みたいに。 「自己完結もいい加減にして下さい。」 あれ、二度も希彦の声で聞こえてくる。さっぱりわからなくて、失礼を承知で後ろの席に身体を向けた。 「あ…」 あっという間に視界が滲む。冬じゃないのにやっぱり黒を来た背の高い人が一人で座っていた。 「子ども子どもって、俺の気持ちより大事なんですかね。」 何で今ここでこの人の声なんだろう。心を揺さぶる声、貫き通す視線。半年が嘘のように戻ってしまう。手を伸ばしさえすれば元に戻れる。そして私はそれを死ぬほど求めている。でもそれは無理だ。この人の一生を壊してしまう。私にはその資格はない。 何も言えずにただ涙を流す女を、行き交う人たちはあからさまに見はしないけれど、十分興味深々で通り過ぎる。 「泣くって何なんですか?」 立ち上がって隣に来た人の冷たい声が響く。 「大体、愛してるとか最後に告白していなくなるオンナって、最悪としか言いようがないんですけど。こっちはどうすればいいんだって話で。さっぱりこっちの気持ちを考えてないところが笑える。」 「わ、笑えるって、」 ものすごい鼻声しか出てこない。 「笑って堪える男の気持ち、わかります?五年分って言いましたよね。それ、勝手に無しにされて。考えたこともない子どもとか持ち出されて。年上風吹かせるのもいい加減にしろって感じですよ。」 「い、いい加減…」 「大方俺はモテるからさっさと次見つければ良いんだとか、思ってたんでしょうけど。」 「自分でい、言ってる。」 言ったそばから鼻が出て来て慌ててすする。 「モテましたよ?そりゃ。自慢じゃないですけど、俺中学ン時から今まで、シングルの時間ってほとんど無かったんで。」 「…」 「絵梨花さん、」 半年ぶりに呼ばれて背中が粟立つ。でもまだ顔は見られない。 「俺、あなたからするといい加減に見えるかもしれないけど、結婚したら一筋ですよ。さすがにちゃらんぽらんのまま結婚には踏み切れない。だから白川と結婚すれば、もう他には目もくれない自信ある。あいつだけを見て、心の底の気持ちには蓋をする。結婚って俺にとってはそれくらいの覚悟がいるもんなんです。」 ―俺との結婚、考えてください。― 夢のような、でも残酷な言葉が脳裏によみがえった。 「気持ちに蓋をさせて、それで絵梨花さんは良いんですか?俺がみすみす不幸になるのを知っててそれでも良いって思うんですか?ナースのくせに、そんなに残酷でよく仕事務まりますね。それから、」 軽い溜息が聞こえた。 「もういい加減その涙止めて下さいって。」 涙、何で止まらないんだろうな。これじゃ脱水になっちゃう。さっきから一瞬たりとも止まりゃしない。 「好きなんですよね、俺のこと?愛してるって言ってくれたじゃないですか。絵梨花さん、付き合うなら長いって前言ってましたよね?そんな人が気持ちをコロコロ変えるなんて思えない。絵梨花さん、事あるごとにバカなのって訊くけど、あなたが無理して別れようとしてることをわからないほど、俺バカじゃないですよ。」 席を立て、今すぐ。そうしないと目の前のこの人に縋ることになる。この人の一生を台無しにしてしまう。錯覚だって、この人が好きだって言ってくれてることなんて。ただの刷り込み。間違ってアヒルがカモの一家についてくみたいな。私に怒られたことで奮起したなんて、そんなの… 「香りまで変えて…ほんとにバカですよね。」 どうして身体が温かくなっているのかがわからない。ただ包み込まれるような懐かしい感覚がしてホッとしている。目の前に希彦の身体がある。 「ま、でもこの香りも絵梨花っぽくて好きだけど。」 鼻先が鎖骨に触れる。 「愛したままでいて下さいよ、絵梨花さん。俺のことを愛したままで。」 鼻水も涙も全部いっしょくたで、44とも思えない体たらくだ。でもそれでもやっぱり私は。 「希彦、」 「なに?」 いつの間にか私の胸元に顔を埋めている。コーデ二分、ワンピース、泣きながら。 「子どもどうするの?」 つむじを見ながら最後に問う。 「俺、言ったっけ?欲しいって?」 「違うけど…でも希彦のご両親とかきっと孫の顔、楽しみにしてる。希彦だって公園とかで親子連れ見たりして羨ましくなる。」 至極真面目に言ったのに、吹き出された。 「すげえ、絵梨花。もう嫁気分半端ないね。」 え、ちが、と言いながら起き上がった希彦の胸を叩く。 「大丈夫だと思うよ?俺の親たち、もう俺の結婚自体諦めてる感あるし。それに弟がさっさと結婚して子沢山だし。」 「おどうどさん?」 汚いけれど止まらない鼻水を啜りながら訊くと、 「ああうん。弟も医者なんだけど、結婚早くて。確かまだ三年目とかでさっさと結婚しやがった。しかも同じ病棟のナースと。」 ま、俺もナースかと首に手をやっている。 「子ども、そんなに大事?絵梨花欲しいの?」 目を覗きこまれて、果たして私はどうだったんだろうかと考える。考えるってことは、今まで欲していなかったってことで、とどのつまり、私はまた希彦にだいぶ前に指摘された‟随分くだらない外枠のところ”でゴチャゴチャ言っているのかもしれない。 「ううん、そんなんじゃない。欲しいのは希彦。」 バカで弱い私は、言ってはいけない言葉をついに口にしてしまう。 「言っただろ、俺の時間は絵梨花に渡すって。」 濃紺の朝顔のような微笑みを浮かべて希彦が腕を伸ばしてくる。 「愛してる、希彦、本当に愛してる。」 私はまた涙を流しながらその腕にそっと身を委ねた。 「もう言い逃げするなよ?」 キスが降ってきた。顔中に希彦の柔らかな唇が触れる。夢のようで涙が溢れる。 「泣き虫っていうのだけは違うと思ってたけど。」 目尻に囁かれる。私が一番驚いている。これだけ泣くのはたぶん貴久の時以来だ。 「お、鬼の目にも涙。」 笑いとるとか見上げた根性だな、と笑われている。あの廊下の時とは違う言葉が聞こえてきて、あの時の身を切るような淋しさを思う。でも今はそれにさっさとドクターの声音が続く。 「3号輸液が必要だな。」 「ま、末梢、と、取れる?」 クックッと笑い声が降りてくる。懐かしい、何もかもが。 「そのクソナース根性、職業病もいいとこですよね。」 「そっちこそ、3号とか。」 優しくて綺麗な瞳がすぐそこにある。半年焦がれた瞳が私を見ている。もう二度とないと思っていたのに。 「顔、ここにこすりつけたら。」 そう言って希彦が人差し指で自分の胸を指している。 「いや、ダメだって。」 鼻をグスグス言わせながら抵抗する。 「いいから。」 後頭部に手が当たって抱き寄せられた。いつもの香りがする。ウッディでスパイシーな。グイッと抑えられてムギュッと顔が埋まる。自動的にTシャツに顔がこすれる。ああ、黒はまずいんだって。乾いたら白っぽくガビガビに目立っちゃうから。頭はそう思ってるのに、裏切り者の両腕はしっかりと希彦の背中を掴む。硬くてしっかりした背中。私を守ってくれた背中。 愛おしい、希彦のどこもかしこもが。
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