103人が本棚に入れています
本棚に追加
「息してます?」
おかしそうな声が降ってきた。でもまだくっついていたくて背中の手に力を入れる。
「じゃあ良いんですね?」
ハッとさせる何かがその声に混ざり、髪の毛が払われたと思ったら、温かな唇が首筋をさまよい始めた。ゆっくり、そっと。気持ちが高まる。呼吸が乱れてセーブ出来ない。とろけるような声が漏れてしまってギョッとした。我に返って慌てて身を放そうとしても全然動かない。それどころかどんどん情け容赦なくなってくる。
どうしようもなくなって身体をよじると、
「行きますか。」
甘く意地悪な声が囁く。
「立てます?」
さらに意地悪く訊かれる。勿論、と言いたいのにその実身体に力が全然入らない。こんなことは初めてで焦る。でもどうしても膝が立たない。
「じゃあタクシーにしましょう。」
さえずるような上機嫌さで希彦が電話をかけ始めた、片手で私の背中をゆっくりとなぞりながら。やっぱりこの男はロクでもない。
「ええ、一泊で。空いてますか?はい、ああそうですか、まあ夏休みですもんね。ではそこでお願いします。由良希彦です。理由の由に、優良可の良。希望の希に彦は、そうそれ、彦根城の彦です。電話番号はそちらに出てませんか?はい、その番号です。では今から伺います。」
全神経を総動員して何とか聞き取った。
「彦根城?」
身体は発火しているけど、やっぱり面白くてつい訊いてしまう。
「いいだろ?」
得意そうにうそぶく瞳に彦根城以前のことを訊いた。
「ねえ、」
「うん?」
「どこか行くの?」
「そんな目で訊かないで。俺もう結構限界なんですって。」
嘘つき。全然いつもと変わらない余裕のくせに。だから脇腹をつねってやった。硬くてなかなか摘まめないから、思ったより強く摘まんでしまったけど。
「え?ちょ、痛いんですけど。」
驚いた声がして少し胸がスッとした。だって好き勝手ばかりされてるもの。
「意地悪ばっかりするから。」
なのに、へえ、と目を覗き込まれた。
「こんなの序の口ってわかりませんか?」
その熱にあてられる。この人の本気の色香には絶対に歯が立たない。学習しないなあ、私。さあ行きますよ、もう立てそうですよね、俺のこといじめるくらいですからと腕を引っ張り起される。さすが救急のドクターの見立てだけある。ちゃんと膝に力が入ってきちんと立てた。
なのに今度は、目を細めて頭の先からつま先までわざとらしく見てくる。
「センター長に会うのに、いつもこんなにめかし込むんですか?」
「?」
「ヒール。」
顎をしゃくっている。それは単に今日のワンピースに合うからで、ヌーディーなサンダルな上にヒールが高くて歩きにくいから、滅多に履かないのだけれど、今夜はたまたま履いていた。
「襟ぐりもあいてるし。」
それもたまたまそういうデザインで、少しでも気持ちを上げたいからと選んだレモンカラーのワンピがそうだっただけで。なのに襟に沿うようにラインをゆっくりと指でなぞるのは止めて欲しい。
「ねえ、」
声を絞り出せば、まるで何もしていないかのようなとぼけた顔で見返される。
「そうされるとまた歩けなくなっちゃうんだけど。」
「そうされるって?」
我が物顔に動き続ける二本指を掴んだ。
「これ。」
「へえ、たったこれだけでもうダメなんですか?どうしました、絵梨花さん。たった半年の間に随分弱くなったみたいですね。」
ニヤリと笑っている。
そうだった、こいつはいつだって確信犯だった。すっかり忘れてた。覚悟を決めないと、とても太刀打ち出来ない。私は下腹部に力を入れた。ナメてもらったら困る。私だってそれ相応に経験を積んできてるんだ。ふんっと鼻から息が漏れた。
「あ、気合入りましたね、今。さすが絵梨花さん。」
なのに合いの手がこれで気が抜ける。これから土俵で立ち合う気分だったのに。
支払いを済ませようとしたら、いつの間にかいなくなっていた貴久がとっくに全部支払っていたらしい。そのスマートさに感謝する。店から乃木坂まで続く大通りへと出る。
「その靴で歩けるんですか?」
鼻で笑われながら。
「歩く予定なかったから。」
ブスッとした声で返せば、急に腰を抱き寄せられた。
「セクシー過ぎてやっぱ無理なんで、タクシーいいですか?」
耳元に囁き入れられてよろけそうになる。うん、と答えた声が掠れてしまった。
タクシーの中では手の甲に口づけを繰り返されて、リッツに着いた頃にはフラフラになっていた。左手で私の手握ったまま、チェックインを済ませる横顔をただ見上げている。大好きな横顔のラインはやっぱり途端に肉感的になる唇につながっている。薄いくせに、どうしてこう吸い付きたくなるように見えるんだろう。
「だから、その目。」
自分だって黒い炎が揺らめいているくせに、こっちばかり非難してくる。そのくせエレベーターにはさっさと手を引っ張って一番奥の角に立ち、私を引き寄せたりする。背中が硬い胸に支えられている。安心するはずなのにドキドキする方が強くて、おへそ辺りで組まれた手に、どうか動かないでと必死に願っていた。
………でも、相手は由良だった。
最初のコメントを投稿しよう!