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8.相互性と対等性
何だかよくわからない内にエレベータから押し出され、足元がフカフカすると一瞬思ったら、あっという間に引きずられるように廊下を歩き、気付けばしっかりとした重厚なドアに背中を押し付けられていた。
「抱いていいですか?」
黒く燃えているような瞳に見つめられてそっと頷く。どうしようもない熱に包まれて、お互いを飲み込むようなキスを続けた。この人の全部が欲しい、気が狂うくらいに。ただそれだけを思い続けて、嗅ぎなれた香水とまだ真新しい私の香りの中で身体をぶつけ合う。およそ何の優美さもない唸るような声で攻められ、攻め返す。好きなんだから。愛してるんだから。お願い、わかって。
肩で息をする相手を見て、自分を見て、笑ってしまった。何もかもにまみれている。スマートさとか余裕とかどこにもない。洋服は床に散らばっているし、バッグだって玄関に放り投げられている。
「笑うとか。」
不貞腐れるように言っておきながら、自分だって笑っている。
「希彦だって。」
そう言うと、口角を上げたまま手を差し出してきた。
「シャワー行きましょう。」
「え?このまま?」
「いやだってすぐそこですよ?大丈夫ですよ、誰も見てやしない。」
ホテルの部屋の中だから当たり前なのに、そんなことをわざわざ律義に言ってくる。
「…希彦が見てる。」
「可愛くすると襲いますよ。」
結局そのままベッドから引っ張り出されて、とても広いバスルームに連れ立った。
「お湯入れときますから、その間にシャワー済ませましょう。」
何だかドクターのオーダーを出されているようで即入力したくなる。部屋に入ってから全然余裕がなくて、辺りを見渡していなかったけれど、何だかこのバスルームの広さを見ただけで(そして置いてあるアメニティーの種類も確認して)ようやくこの部屋が普通の部屋でないことに気が付いた。ガラス張りのシャワールームに入りながら恐る恐る訊いてみる。
「ねえ、この部屋ってもしかして普通の部屋じゃないの?」
背が高いというのはこういう所でも重宝するらしい、というのを丸出しに、まるでスイレンの葉っぱのように広がっているシャワーヘッドから直接お湯を浴びようとしていた人が、面白そうな顔をして見下ろした。
「普通この状況で、もっと他に考えることあると思うんですけど。」
手渡された、こちらはきちんとホースのついたシャワーを持ちながら、いやだってと思う。オリエンテーションは意識確認の基本だもの。温度調節をしながら身体にお湯をかける。
「はい、どうぞ。」
やっぱりこのアメニティー、これ気分上がるわ、と手渡されたボディーソープを見てほくそ笑む。十分泡立てるとうっとりするような良い香りが立ち上る。ああ、良い匂い。深く香りを吸い込みながら細かな泡を身体につけようとしたところで、手首を掴まれた。
「お楽しみのところ申し訳ないんですが、俺もいるんですよ?一人で風呂に入ってる気分、まっしぐらじゃありませんか。」
ああうん、そうだった。あんまりシャワールームが大きくて、あと一人くらい余裕で入れそうな位だから、すっかり(でもないけれど)忘れていた、希彦の存在を。
「ええと、」
自分だって洗髪を済ませてるくせに。しかも髪の毛が撫でつけられててお湯が滴ってるとかってなに。そんなのまともに見せられたらのぼせるって。目を逸らしながら口ごもると、
「背中洗って下さいよ、ほら。」
と厚かましく言われている。
「え、でもそれ背伸びしないと、」
抗議したのに、
「したらいいでしょうが。」
と偉そうに返された。こいつは、本当に一体何様だ。
「足、気を付けて。結構滑りますよ。」
だから。医者なのか恋人なのか立場をはっきりして欲しい。不貞腐れたまま、精一杯手を伸ばして意外に広い肩を洗う。なで肩のくせに結構広い。途中でソープを継ぎ足してもくもく洗う。自分の身体と違って硬いし筋肉がついているし結構面白い。ウエストまで来たところで、くるりと希彦がこちらに向き直った。
「うわ、」
途端に何だか焦っている。
「どうしたの?」
「視界的にマズい。」
見上げると頬に赤みが差して天井を睨んでいる。
「視界的?」
「そうなんで、ちゃっちゃっと適当に洗っちゃって下さい。」
訳がわからないまま、言われたとおりに適当に胸とお腹を洗った。アルコールを飲むくせに、お腹は筋肉でうっすら割れている。そりゃ筋トレしてるって言ってたもんね。あ、ちょっと待って。私のお腹。慌てて見ると、それこそ視界的に無理だ。ああどうしよう、下腹部、35過ぎたら一気に出てきたんだよね。ダイエットまた始めないとなあ。途中から焦点は自分のお腹になっていると、
「ええと、終わりました?」
まだ天井を見たままの人から声が降ってきた。
「うん、一応上半身はね。あとはご自分でどうぞ。」
「じゃあ今度は俺が洗いますよ。」
と仰天するようなことを言ってくる。いや、だから下腹部。無理、絶対無理だって。
「ううん、いい大丈夫。それよりお湯見た方が良くない?」
あ、そうか、そうですよねと言いながら、案外素直に希彦はガラスのドアを開けてバスタブを確認しに行っている。
「大丈夫?」
「丁度いい感じ。なんかバスソルトありますけど、入れときますか?」
なんと、さすが。
「うん、勿論、お願いします。」
ウキウキしてじゃあじゃあお湯をかけてさっさと身体を洗った。
「は?何もう浸かろうとかしてるんですか。」
ドアに手をかけたところで立ちふさがられる。
「え、だって、せっかくお湯加減見てくれたんでしょう?入ろうよ。」
そう言って手を握ると、マジかよこの人は、慣れてんだか何だかなと呆れた声が聞こえてきた。でもいい。そんなことよりお風呂、ともかくソープとお揃いのうっとりするこの香りのお風呂に入らなくちゃ。
「ちょっと待って。」
バスタブに来たら、俺が先に入ります、とさっさと足を突っ込んでいる。どうぞ、と手を出されて一瞬お姫様にでもなった気になる。うふふと笑いながらその手を取って足をお湯につける。あああ、気持ちいい。
「こっちに寄りかかって。はいどうぞ。」
長い脚が伸びているのがミルク色のお湯に透けてわかる。一体どこまで伸びているのか。その間に身体を沈めて、そっと後ろに倒されるままになる。思わずホウッと息が漏れる。目をつぶって香りを吸い込む。陶然とする。
「絵梨花さん、本当に風呂好きなんですね。」
クスリと笑われている。目を閉じたまま頷く。
「うん。温泉とかもう好き過ぎて大変。」
「よく行くんですか?」
「オフが続けて取れた時はね。」
「じゃあ今度は俺と行きましょうよ。」
「うん?」
「合わせて希望、出しましょう。」
「あ、それ良いなあ。幸せになっちゃう。」
幸せ?可愛いな。そんな声が後ろから聞こえてくる。
「それって俺と行くからですか?それとも単に風呂?」
うわあ、出た。
「出たって、お化けじゃないんだから。」
「いや、その希彦の‟俺ですよね当然”的な質問、久しぶりに聞いた。」
「俺ですよね当然?」
クックッと笑っている。私の腰の辺りもつられて揺れる。
「ねえ、一つ訊きたいんだけど。」
「良いですよ、何ですか?」
「それだけモテるってどんな気分なの?」
「え?」
「いやだって、やっぱり答え聞いてみたい。」
「そういうの、お友達の上郡先生にしてみたら良いんじゃないですかね。」
うん?あれ何だろう、もしかしてちょっとトゲがあるかな?
「ああ、うん、大地はねえ、確かにもうほんと―」
突然舌をねじ込まれて目を閉じる暇も無かった。首を強く支えられてのキスがただ続く。唇をつなげたまま向きを変える。希彦の首に手を巻き付けて、むさぼられるのに必死で応えた。
「出よう。」
切羽詰まった声がして身体が引き上げられる。綺麗に畳んであったバスタオルを無造作につかむと、さっさと身体が拭かれる。え、ちょっと待って。もうちょっときちんと拭きたい。そんなことを言いかけたらまた唇が降ってきた。
さっきとはうって変わって、極限まで焦らされて外される。その繰り返しだ。翻弄されて訳がわからなくなっているのに、頼んでもすがっても聞き入れてもらえない。まるで罰を受けているようだ。そこまで思い至って急に腹が立ってきた。何で?何で私がこんな目にあっているの?瞬間、身体を入れ替えて上に跨った。
「っ?」
だめだよ、今さら。そんな意地悪される覚えないもの。私の底力を見せてやる。力と技を総動員して今度はこの長くて引き締まった身体を翻弄する。息が荒くなってきて甘くなるのをどこか冷めた気持ちで見下ろす。意地悪、本当に意地悪。私がどれ程の思いで別れを告げたかなんて全然わかってない。どれほど焦がれたと思ってるの。くだらないと笑われた外側で。くそー。
どこにもかしこにも跡をつけた。男だけが出来ると思うな。男だけが主導権を取れると思うな。
「頼む。」
無理だよ、そんな声でそんな目で見上げたって。
「もう…」
声が掠れている。大好きな切れ長の瞳が潤んでいる。色香がむせ返るほどたちのぼっていて、一瞬見惚れた。それが命取りになった。あっという間に組み敷かれてどうしようもなく抱きつくだけになった。
やっぱり想いがぶつかり合った。
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