1.1月25日、由良希彦37歳

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「へ、え。」 45階に上がり特別にお願いしていた東京タワーが見える特等席についた。 「ミッドタウンって聞いて、まさかなとは思ってましたが。」 驚いた顔に溜飲(りゅういん)が下がった。どうだ、43歳の意地を見たか。 正面の東京タワーが今日も綺麗に東京に君臨している。大好きな東京タワー。頑張っているその姿を見ると、私も頑張ろうと思えるから。 「私、リッツ好きなの、昔から。」 「昔?」 お祝い用のシャンパンをまずグラスで注文し終わり、メニューを眺めながら言う。 「そう。ロンドンにいた時よく行った。」 「え、上島さん、ロンドンに住んでたんですか?」 「うん、そうよ。修士取りに行った。」 「へえ。アメリカじゃなかったんですね。」 「まあね。」 「…へえ。」 掬う様な視線を当てられる。 「ロマンスの香りしかしませんけど。」 鼻で笑うにとどめた。お昼時のリッツ、本当に好きだった。お昼間からよく飲んで笑った。四月の青空を思わせる薄いブルーの瞳に映る自分は幸せだった。でもわざとらしい咳払いが聞こえてきて思いは中断された。 「今日俺の誕生日なんですけど。昔の男とか思い出さないでもらえます?」 「その勘の鋭さ、臨床でも十分役に立ちそうだね。」 「否定しないし。」 「誰かさんを見習ってるんで。」 そこに美しい金色の泡が垂直に立ち上るグラスが二つ運ばれてきた。 「37のお誕生日、おめでとう。」 とグラスを掲げると、やけに強調しますねとか言いながらもグラスを合わせてくる。澄んだ瞳から目が離せなくなりそうで困った。無理やりメニューに目を戻す。 「お魚とお肉、メインはどっちがいい?」 「うーん、俺はやっぱり肉ですかね。」 「肉食だもんね。」 「それ人聞き良いんですか、悪いんですか?」 「んー、君の見た目だと予想を裏切って良いんじゃない?」 「は、何ですか、それ。俺そんなに草食に見えます?」 「いや実態はもはや恐竜だけどね。」 「恐竜って。」 「骨まで食らう系。」 「はは、じゃあ食らっていいですか?」 ニッコリしながら言うな、そんなことを。全く。無視だ、無視。そのままメニューのWinter Dinner 5をオーダーした。 「お食事と一緒にお飲み物はどうされますか?」 慇懃に聞かれて、そうだそうだアルコールだと、まるでオヤジのような気持ちになる。 「何が好き?お誕生日だから何でも好きなもの、どうぞ。」 「えー、じゃあ上島さ―」 「ブルゴーニュのこの赤で。」 さっさと言ってメニューを渡した。 「聞いてくれてないじゃないですか。」 「私は飲み物じゃない。」 「…それあんまり確信持ってない方が良いですよ?」 一瞬にして囚われた、漆黒の炎のような瞳に。こんな衆人環視の中で凄みがある色香を放たないで欲しい。慌ててシャンパングラスを掴んで、およそ優美とはかけ離れた勢いで飲み干した。飲み終えてちらりと横を見ると、長い指でステムをゆっくりと撫でている。十分見つめられている。頼む、顔赤くならないで。下腹部、ズンとしないで。 「部屋とってないんですか?」 「ないです。」 「へえ…何で?」 「バ、」 「バカじゃありませんって。バカじゃないから訊いてるんです。」 ああ、どうしよう。もたないかも。なのにフルコース頼んじゃってる。そうだ、見よう景色。 「東京タワー、私大好きなんだ。だからこの席、いつもとれなくて、いつか絶対って狙ってたんだ。さすが由良(ゆら)先生。」 黙ったままじっと見ないでほしい。ワイン、ワインはまだか。キョロキョロ見回すと、さすがのサービスぶりでブルゴーニュのボトルがあっという間に運ばれてきた。ぷっくりとした大きいグラスに注がれたそれを口に含む。うん、深くてでも渋すぎなくてお祝いに丁度いい。ニッコリ笑って合図をすると、深い赤色が透明な輝きのグラスに吸い込まれていく。 二人分注ぎ終わったところで、 「失礼ですが、」 と声がかかった。 「本日はお誕生日のお祝いでいらっしゃいますか?さっき小耳に挟んだもので。」 いや、というのと、はい、というのが重なった。 「こちらがお誕生日で。」 睨まれているのに負けじと掌を向けると、 「左様でございますか。では後程。」 そう言ってスッといなくなられた。影のような極上のサービス。ロンドンでもそう言えばそうだった。 「ちょっと、」 眉間に皺を寄せている。 「ん?」 「勘弁してくださいよ。俺あれイヤなんですって。スタッフに歌われたりするの。」 「えー、いいじゃない。ああ去年はそんなこともあったな、って来年思い出して頂戴。」 「何ですか、それ?」 「気の迷いでも箸休めでも肝試しでも。ともかくあの冬は異色だったけど、それなりに面白かったって思い出して。」 「ツッコミどころ満載ですけど、一つ気に食わないんで言って良いですか?」 眉間にさらに皺が寄っている。へえ、珍しいな。大抵いつも面白そうな顔してるのに。 「来年、何でいないみたいなこと言ってるんです?」 そこは普通流すところじゃありませんか?ああそうか、そうなんだな、みたいに。 「…」 「俺何が嫌いって、不戦勝とか不戦敗とか、そういうの。大嫌いなんですよ、部活やってた時から。」 「ああ、そう。」 何だか表情の真面目さに気圧される、不本意ながら。そのまま黙ってワインを飲む羽目になった。 「あの、」 東京タワーを見ている横顔に言った。 「何か、ごめん。」 「何が。」 ちっともこっちを見ない。初めて怒りをぶつかられているようで、戸惑う。違うでしょ、あんたはいつだって余裕があってくだらないことを喋ってて、勝手にあちこちでモテてて。それがあんたって人でしょうが。真剣に怒るとか全然合わないよ。 「ねえ、」 そっとテーブルの上に投げされている腕に触れた。 「お弁当やってくれるんでしょ?玄米は、玄米だけだと味がないんだよ。つぶしがきかないの。」 返事はないけど口角が少し上がった。もう一押し。不本意だけど、死ぬほど恥ずかしいけど、ああもうっ。 「一緒にいないと成り立たない。そうでしょ?」 腕に置いた手に温かな手が重ねられた。 「それで精一杯なんですか?」 優しい光がようやく戻ってきた瞳でまっすぐに見つめられる。 「俺、誕生日なんですけど。」 「だからお店の人が歌ってくれるって。」 「マジで勘弁。トイレに行くんで、後はよろしくってバックレますからね。」 「卑怯者。」 「何が、っていうかどこが。」 そう言っているうちにようやく前菜が運ばれてきた。その宝石みたいな美しさに思わず笑みがこぼれる。 「うわ、旨そう。」 「だよね、本当に。ささ、遠慮なく召し上がれ。」 「やっぱり前も思ったけど、これじゃお楽しみ前座の社長と愛人みたいじゃないですか?上島さんが間違いなくオヤジで。」 「あのねえ、どうせならバリキャリの女社長と囲われるツバメって言う設定で行きなさいよ。」 「いや、それリアリティ半端ないですから。」 「はあ?どこの世界に医者を囲う人間がいんのよ?」 「ここに?」 およそくだらないことばかりの応酬だけど嬉しかった。さっきは途方に暮れてしまった。初めて怒りを目の当たりにして。当たり前だけど、ちゃんとプライドも感情もある一人の男のなんだと思った。始まりが始まりだっただけに、何となくずっと心の中でその存在をナメていた。気付きたくなんかなかったのに。だってナメているうちは、心がシールドで守られている。上っ面のやりとりだけで済むから。本気になんかなりようがない。踏み込まなくて、踏み込まれなくて、安全だから。 でも気付いてしまった。足がすくむ。笑顔で喋りながら、この上なく美味しいお料理を食べながら、心は震えている。嫌だ、怖い、二度とあんな思いはしたくない。何で私になんか目を留めたんだろう?どうせすぐにいなくなるのに。去ってしまうのに。 やっぱりデザートではなんとレストランの明かりが消され、スタッフの歌声とともにろうそくが灯されたケーキが恭しく運ばれてきた。中腰になって今にも逃げだそうとする背中を掴んでいたから、あちこちから忍び笑いが聞こえてきた。ろうそくを吹き消すと、途端に歓声が沸き、また明かりがついた。死にそうな顔でそれでも周囲に会釈するのを見て思った。 違った、来年思い出すのは私なんだ。 去年はあんなことがあったなって。それなりに面白かったなって。
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