1.1月25日、由良希彦37歳

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「お待たせ。」 もう綺麗なうっすらとしたライム色のカクテルがコースターの上に上品に立っていた。横には硬質な透明度を誇るマティーニが王者のように鎮座ましましている。マティーニ、お前もか、と言いたくなる王様っぷりだ。 「ごめんね、先に飲んでてもらえば良かった。」 そう言って心持ち離れて座れば、クッと笑われている。 「いくら恐竜でもここじゃあ食らいつきませんよ。」 チキショーこの余裕野郎。無言で良い香りのグラスを持ち上げかけて思い直した。 「お誕生日に乾杯。」 「有難うございます。」 カンパイってむしろ完敗の方なんだけど、気分としては。でもギムレットは安定のおいしさで冷たさと苦さとが喉を滑り落ちて、心まで落ち着かせてくれた。 「そうだ、プレゼント全然聞いてなかった。ごめんね。」 言った途端に、切れ長の目が肉食獣のように光るのを見て背筋が粟立った。 「いいんですか?」 「いや、ちょっとなにその問い?怖いんですけど。」 「怖いかも。」 にやりと笑っている。 「ええ?」 「三つあるんです。」 「なにそれ?私、魔法のランプ?」 「ええ、俺がアラジンで。」 「二つ。」 「え?」 「二つにしよう。」 「誕生日のプレゼント値切るとか。」 「いいから。」 「ダメですよ、俺の誕生日です。三つ、はい行きますよ。一つ目は、」 こいつのこの強引さは何だ。 「これからは名前で呼ばせてください。」 「え?」 言うなり耳元に温かな息がかかる。 「絵梨花。」 直接鼓膜に吹き込まれた、私の名前。背筋がゾクッとして肩が少し跳ねてしまった。暗くて良かった。耳まで赤くなってるに違いないから。 「二つ目は、」 「ま、待って。」 慌ててギムレットに助けを求める。グイッと飲み干してもう一杯注文した。その一部始終を面白そうに眺められている。早く、お替り早く来て。なのに、シェイカーの音すらまだ響いてこない。もう分量とかどうでもいいから、何ならジンの瓶ここに持ってきて、私が作るから。 「焦ってますねえ。」 クックッと笑われる。 「ない、それはない。」 即答ぶりが裏書きしている。ああ、クソ。 「いいですか、二つ目は、」 「ちょ、」 「何なんですか、今度は?」 目を細めて首を軽く傾げている。仕草がいちいち胸にくる。 「いや、ほら二杯目が来てからにしようよ。私喉乾いちゃって。」 言っているうちにシェイカーの音が聞こえてきた。 「やっぱり出来たてが一番だし。」 「俺、カクテルのこと出来たてって言うの、初めて聞きましたよ。」 「あはは、そう?」 乾いた笑いを返してる間に待望のおかわりが到着した。 「はい、じゃどうぞ。お気の召すまで。」 そう言いながら自分もマティーニを啜っている。Shaken, not stirred。勝手に心の中で呟きながら、ギムレットを半分くらい飲む。 「じゃあ良いですか?」 もう引き延ばすのも情けなさ過ぎだから、渋々頷く。途端に私の方に向きを変えて唇がまたもや耳元に寄せられた。 「首筋、触れさせてください。」 「え、なに?」 「胸鎖乳突筋でも良いですよ。頸部大動脈とか。」 「ますます訳わかんないんですけど。」 「仕事中アップにしてますよね、見る度に触れたいと思っていたんで。」 「ええ、何それ?」 言いながらもまた鳥肌が立った。声だって掠れてしまっている。いくら薄暗いからと言って、もし声でも出してしまったらどうする。 「ダメだよ、人が見る。」 「見ませんよ、誰も僕らのことなんか。」 「私のことはね、でも―」 「それ以上言い募るとキスしますよ。」 「ねえ、それ何で?何かにつけてキスキスって言うの?」 「好きだからですよ。」 心臓が一跳ねした。何が、何が好きなんだろう。そう思って見つめた瞳は暗い室内でも熱を宿しているのがはっきりと見える。とろけてしまいそうになる。 「良いですよね?誕生日ですから。」 誕生日か、なら仕方ない。そう思う私の頭のネジはとっくにどこか遠くに飛んで行ってしまったに違いない。瞳を見つめながら頷く。空気が揺れてまた笑ったのがわかった。 「もう少し近くに来て。そうすれば俺の背中で隠してあげられるから。」 優しいんだか、恩着せがましいんだかわからないことを言われて、でもそれに素直に従う私も私だ。ほとんど膝の上で覆いかぶさられるような態勢で、右手の指がゆっくりと耳の後ろに触れた。それだけなのに、たったそれだけなのに腰が浮いてしまって舌を噛み切りたくなった。そのまま触れるか触れないようにして鎖骨まで下ろされる。何度も何度も繰り返されているうちに、気づけば両手を由良の首に巻き付けていた。喉の奥で笑うような微かな音が聞こえてくる。え、何?自分の手がたわんだことで、初めて指のかわりに唇が首筋に寄せられたことに気が付いた。身体の芯に電流が走る。同時に甘やかな声を上げそうになって、すんでのところで顔を由良の肩にこすりつけた。 「大丈夫?」 笑い声を潜ませて訊くな。挙句、訊いたくせに返事を待つ気なんて毛頭ないことを首筋を滑る唇が証明している。薄いくせに触れると確かな厚みを持つ不思議な唇。羽のように軽やかで、でもしっとりと柔らかく吸い付きもする。頭も体も発火してるような気がして訳がわからなくなってきた頃、ようやく身が起こされた。 「堪能。これで病院で見てもしばらく我慢出来そうです。」 「ヘンなこと言わないで。思い出しちゃうでしょうが。」 「思い出して下さいよ。」 「バカ。」 ははと笑いながら、親指が私の上唇から下唇へとゆっくり下ろされる。下唇がちょっとめくれて口が自然と開いてしまった。やっと鎮火すると思った身体が、そんなことをされたらまたぞろうごめき出してしまう。 「ヤバいな。」 え?訊き返したはずが掠れ過ぎていて声にならない。ただ見上げると真っ黒な瞳が熱を孕んでいた。 「自業自得か。」 そう言うと、優しく私を膝から下ろしてマティーニを啜っている。 切り替え。 男のこういうところをそう言えば忘れていた。私はまだ視界が揺れていると言うのに。息を一つついて、放りっぱなしだったギムレットに向き合う。大丈夫、私だって切り替えられる。伊達に‟鬼の上島”じゃないんだ。もうだいぶぬるくなってしまったのをまた飲み干す。 大丈夫だよね、見られてないよね?恐る恐る店内を見渡すともうだいぶ照明が落とされている。これなら判然としないか、多分。良かった。そう思った途端に、 「安心しました?」 やっぱり笑いを含んだ声がかけられる。 「大丈夫ですって。背中で守りましたから。」 その言い方。ちょっと胸にくる。
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