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「……千尋、そろそろ起きてくれ」
頭上から降ってきた声と控えめに揺すられる身体に、意識が少しずつ覚醒していくのを感じる。
重い瞼をこじ開けて、ぼやける視界の中で。日差しを浴びた薫だけが浮かび上がって見える。
「…………あー、またやった。ごめん」
「いや、構わないよ。勝手に運んでしまったけれど、身体は大丈夫かい?」
「……大丈夫だ」
ゆっくり身体を起こせば、ぱさりと何かが身体から落ちた。それを手に取って、薫に返す。
「これありがとう。足は痺れていないか?」
「どういたしまして。それも問題ないよ。……マスター、千尋にいつものを」
薫は、俺専用になってしまっているひざ掛けを丁寧にたたんで鞄にしまい、カウンターの向こう側に声を掛ける。マスターは何時ものにこやかな笑みを浮かべて、小さく頷いた。
「……何で喫茶店?」
寝ている間に俺は大学から出ているのだ。当然の疑問に薫はスマホの画面を俺に見せてきた。
「昨日口裂け女と遭遇した女子生徒とその友人とここで待ち合わせているのさ。残りの目撃者には既に話は聞いたからね。あとは彼女だけと言うわけだ」
流石。興味のある事への行動力が桁違いだ。
ただ一つ気になるのは、さっきまであった高揚感が拭い取られたかの様に、その薄茶色の瞳には熱がない事。
俺が寝ている間に何があったのか知らないが、薫が喜ぶ話が聞けたら良いと。そんな事を考えてしまった自分に、酷い矛盾だと笑ってしまう。
運ばれてきたコーヒーに口を付けて、窓の外を眺める。
大学のカフェテリアに居た時は真上にあったであろう太陽が、大分傾いて街を照らしていた。
いつもより強く感じる光に目を細めて。そこでやっと自分が眼鏡をかけていない事に気付いた。
「……薫。俺の眼鏡は?」
「あぁ、僕が持っているよ。でも、すまない。今はそのままでいてくれないか」
何処か鉱物じみた固い声に、黙って頷く。
深煎りの俺好みのコーヒーを飲み干して。何を考えているのか分からない顔で同じくコーヒーを飲んでいる薫を横目で盗み見た。
じっと、観察してみても。その表情からはやはり何も伺えない。
「俺は何をすればいい?」
だったら直接聞くしかない。腹芸が得意な薫と違って、俺はそう言った類のものは苦手なのだ。早々に白旗をあげた俺に、薫は小さく笑って。
「いつも通りにしてくれればいいよ」
それだけ言って、手に持ったカップを黙って見降ろす。黒い液体に映し出された薫の瞳は真っ黒に塗り潰されて、まるで。
からん。
誰かが入店した事を知らせるベルの音が響いて、顔を上げる。
入ってきたのは大学生と思われる女性の二人組。対照的な風貌の二人の内の一人に、見覚えがあった。
確か、同じ講義を受けてる千代田さんだ。ふわふわとした可愛らしい恰好をした千代田さんが、俺達を見つけて頬を緩めた。
「遅れてしまってごめんなさい。蓬莱君の事はしぃちゃん、えっと。氷室さんから聞いてたから、今日会えるの楽しみにしてたんだ。よろしくね」
礼儀正しく頭を下げた横で、おどおどしていたもう一人も頭を下げる。
「いや、急に呼び出して済まないね。来てくれてありがとう」
多くの人に慕われる微笑みを浮かべている薫の目は、ちっとも笑っていなかった。
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