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契約の比翼連理
廃都の地下には真なる廃都が存在する。
その規模はゆうに地上部分の数十倍だ。大樹海に遮られて人間世界からは隔絶されているものの、廃都から離れた場所で暮らす少数民族達の集落まで含めれば、北大陸の三分の一を占めている。
しかし、真なる廃都を語る上で本当に驚くべきは、その規模ではなく環境だ。
一般的に地下と言われて思い浮かべる黴臭さや湿気、薄暗さといった印象とは無縁であり、夜は夜に、昼は昼に、人の眼から隠れ潜むための地とは到底思えぬほどに地上の楽園の様相を呈している。
それはかつての呪術王が設置した巨大な魔法陣の恩恵であり、いささか奇妙な表現ではあるが、地下の地表には地上と同じような陽光が燦々と降り注ぐのである。
さらにいえば風が吹き、雨も降る。
空を見上げれば幻影魔法により岩盤は消え失せ、澄み渡る空が広がる。
もはやそこは地下とは到底呼ぶことが難しく、実際に暮らす者にとって地上となんら変わらない場所だったのだ。
真なる廃都のさらに地下に存在するメギナ・ディートリンデもまた同様で、城の中庭では柔らかな太陽の光を浴びながら、一人の少女が額に汗して井戸水をくみ上げていた。
「うーんしょ、うんしょっ」
声を張り上げてロープを引っ張る度、大粒の汗が滴る。
見る者が見れば彼女がギドの民だと分かる少女だった。閉鎖的なギドの民が村から出てくることすら珍しいというのに、彼女はメギナ・ディートリンデで働く者達と同様、使用人服を着こんで働いていた。
井戸の中に落とした鶴瓶は重く、二つの滑車によって持ち上げる力が分散されているとはいえ、小柄な彼女にはいかにも重労働に見える。
「む、むむ……っ!!」
それでもようやっと一番上まで鶴瓶を持ち上げたところで体力の限界を迎え、ロープを結んで固定することも鶴瓶を手繰り寄せることもできなくなり、ぷるぷると震え始めた。動けば落とすという確信があるが、それでももう一度持ち上げる労力を思えば手放したくない。
どうにもこうにも進退窮まった、という形である。
力の限りこらえて可愛らしい顔を真っ赤にしているが、いずれ力尽きて鶴瓶を井戸の底へ落としてしまうのは確実と思われた。何とかしたいが、どうにもできない。疲労した頭で必死に考えながら少し泣き出しそうになっているが、それでもロープを手放さないのは少女の矜持ゆえか。
とはいえ、無謀無駄ではある。
己の仕事に矜持を抱くことは素晴らしくはあれど、己の力で完遂できないと悟るに至り、いまだ己の力のみに固執することほど無駄な事はない。本当に目的を達成するのであれば、使えるものはそれこそなんでも使い、人を頼り、懇願し、達成すべきなのだ。
だが、幼い少女にそこまでを要求するのは酷というものか。
失敗を経験し、考えを巡らせ、打開策を練る、そうしてまた失敗するという経験の連鎖の果てに学習することなのであろうから、今回の彼女の失敗はむしろ歓迎すべきものと受け止めるべきだった。
しかし、今回に限ってはその機会は訪れず、いよいよ限界を迎えた少女を抱えるように女の細腕が伸びてきて、彼女の手からロープを奪い取りあっさりと鶴瓶を引き込んでしまった。
「ルネ、大丈夫ですか」
メギナ・ディートリンデに暮らす者であれば知らぬ者などいない赤毛の美女――コルネリアは、安心して地面にへたり込んだギド族の少女、ルネに優しく問いかけた。
「は、はい! 大丈夫です、コルネリア姉様!」
「そう。ならばいいのです。しかし、あなたはまだ子供なのですから、力仕事は他の者に任せたらどうですか」
ギドの民は成人しても人間の腰の高さまでしか身長が伸びない、いわゆる小人族である。見た目から年齢を推し量るのが難しいという特徴もあるが、ルネは正真正銘の子供と言ってよい年齢なのだから配慮してもいいのではないか、そうコルネリアは進言したのである。
だが、ルネは意味が分からず目を丸くした。
「ほかにも私と同じくらいの子がいます。みんな水汲みしています。なのに私だけ水汲みしなくていいんですか?」
「ええ、そのくらいの融通は効かせられます」
保護者でもあった姉が先のエギオラ襲来によって亡くなり、引き取り手のいなくなった彼女を城の使用人として招いたのはコルネリアだ。彼女が口添えすれば多少の融通など問題にもならない。
権力とはそういうものだと教えるとと、ルネは難しい顔をして頭を捻り、口をへの字に曲げた。
「わかりません。みんなと同じがいいです、コルネリアお姉様。ルネは怠け者じゃないです」
「そう……そうね、怠け者じゃないわね」
そっと頭をなでると、ルネは少しだけくすぐったそうにしたが、手を振り払うことはしなかった。むしろ甘えるように頭を擦り付けてくる姿が可愛らしい。
それくらいの褒美はいいと思えるほどに彼女が努力していることを、コルネリアは陰ながら観察して知っていた。辺境のギドの村で育った彼女はメギナ・ディートリンデで働くにはいささか常識が不足している。いくら下働きとはいえ、栄光ある呪術王様の居城で働く以上、相応の常識と礼儀作法を身に着けていることは当然だと考えている者は予想以上に多い。
ただでさえ常識や礼儀作法を知らないことで苦労しているだろうに、コルネリアの口利きとなれば腹黒い宮廷雀達の恰好の的だ。それでも彼女がコルネリアに恥をかかせぬように、恩を仇で返さぬようにと努力しているのは、何よりも彼女のややおかしな、しかし辺境出身とは思えぬ丁寧な言葉遣いを見ればすぐに分かる。
精一杯、努力しているのだ。
それがわかるだけに、己の目的のために彼女を保護したことがわずかに胸を痛めてしまう。そうしなければ彼女がギドの村で孤立していたと理解していても、あるいは、同じ一族の中で暮らすほうが彼女にとって幸せではなかったかと思うのだ。
「寂しくありませんか?」
思わず問いかけた言葉に、ルネは不思議そうにコルネリアの顔を見上げた。
「それは、少し……でも、コルネリアお姉様が時々お話に来てくれますし、城の皆さんも良くしてくれますから、大丈夫です。それよりも、悲しそうなお顔をしています。どうかしたんですか?」
「いいえ、なんでもないわ。あなたが寂しくないならいいのよ。じゃあ、私は仕事に戻ります。あなたも無理せず頑張りなさいね」
「はい、コルネリアお姉様!」
鶴瓶の水を水桶に移し、よいしょと掛け声をかけて運ぶルネを見送り、コルネリアはくいと顔を上げた。
メギナ・ディートリンデの最上階、城の主が住まう居室の窓に人影が見えたのは一瞬だが、彼女の種族的な特性か、あるいは女の勘とも言うべき感覚か、そこに確かに人影があったことを見逃さなかった。
「……困った人ですね」
ルネが片付け忘れた鶴瓶を所定の位置に戻し、コルネリアもまた中庭を後にした。
◇◆
「見られた、か」
窓際から離れたアルバートは、直前に目があったコルネリアを思い出し、ため息をついた。
内面を吐露し契約を結んだあの日から、どうにもコルネリアに対して壁を感じてしまっている。恥ずかしいような、悔しいような、しかし同時に安心感も覚える、いままでに感じたことのない不思議な感覚に戸惑っていたのだ。
いまならば立ち直ったと断言できる。
ルネの姉が死んだ瞬間に襲った激しい自己否定は時間とともに折り合いがつけられるようになった。
いや、できるできないではない。
やるしかないのだ。
世界平和という理想を夢見て、異世界に来てまで他者を犠牲にした意味を失うわけにはいかない。諦めてしまえばすべての犠牲が無駄になると思えば、たかだか己の弱い心ごときで立ち止まる選択肢を選べようはずがないのだ。
だがそれでも、一人で立つことを考えた時、こらえようもない恐怖を感じるのもまた事実だった。
「情けないほどに、弱い。これが呪術王か……?」
立ち直ったはずだ。
確かに己の失策によって民を失う恐怖を感じたが、向き合うことはできたはずなのだ。
だというのに、アルバートの心は揺らぎ続けている。
「浮かない表情ですね」
開いた扉を手の甲で叩いて存在を示すコルネリアに机の上の鬼面に手を伸ばしかけたが、顔を知られているというのにいまさら何を隠すのかと誤魔化すように拳を握った。それがコルネリアに対する無意識の隔意のように感じられ、罪悪感の棘がしくりと刺さる。
「吾輩はそれほどひどい顔をしているか?」
「ええ、とても」
「ふむ。まあ、そうだろうな」
自覚があるだけに否定する気もおきない。自己分析はさんざんに済ませたと納得しての返答なのだが、コルネリアはそれが気に食わなかったらしく茶目っ気たっぷりに唇を尖らせた。
「否定されないのですね」
不満を表現しているらしいが、美女の仕草というものはおちゃらけていても様になる。 下手をすればあざとく見えるかもしれない行動だが、コルネリアは自然とそれを行う。無自覚だからこその美しさ、そして可愛らしさは見る者を惹き付けるフェロモンでも発しているようだ。
これが全て計算づくだったら、アルバートは女性不信になりそうだ。
「そうだな。吾輩は……迷っているのだろうか?」
「何をでしょうか?」
「分からないが…・・あえて言うならば、このままでいいのか、だろうか」
世界平和という大願を諦めるつもりはない。
だが、なぜか前に進む気力にブレーキがかかるような感覚を覚えるのだ。
己が己でないような感覚に訝しむアルバートに、コルネリアは苦笑して歩み寄った。
「本当に困った人」
「何を――」
言っている、という言葉はぱぁん、という激しい音と衝撃で吹き飛んだ。
視界が真横を向いて頬がじんじんと痛み、引っぱたかれたのだと気づくまでに数秒かかった。
「痛いぞ、コルネリア」
我ながら間抜けな言葉だったと思うが、それほどに驚いていたのだ。
まさかコルネリアに頬を引っぱたかれるとは思わなかった。
「罰を与えたのです、アルバート様。貴方様は真面目で、誠実で、実直に過ぎます。考えてみれば、まだ罰を与えていませんでした」
あれ以来、コルネリアは二人きりの時にはアルバートのことを名前で呼ぶようになっていた。
契約を結んだ共謀者であることを示すためと、何よりも呪術王の演技をしなくてもいいと暗に教えてくれているのだろう。その気づかいは素直にうれしかった。
「罰だと?」
「はい。失敗した罰、立ち止まった罰、諦めかけた罰です」
じんわりと痛みが引いていく頬を指先で触れ、アルバートは笑った。
「それにしてはいささか罰が軽いような気がするが?」
「ええ。罰はもう一つありますから」
「それは楽しそうだ。期待してもいいのかね?」
自虐を含んだ皮肉な口調だが、アルバートは確かに喜びを感じていた。
罪を償うことなく生きるということは、予想以上にアルバートの心に暗い帳を落としていたのだ。あの時にそれに気づいていたはずが、いつの間にか契約に寄りかかって目をそらしていたらしかった。
罪には罰を。
それによって心のざわめきが掻き消せるとあれば、今後の憂いを消す意味でも望むところだ。
だが、果たしてコルネリアの用意した罰に期待をしていいものか。
自虐ではないが、アルバートの中で揺れ動く心の苦悩はいかにも複雑であり、並大抵の罰では対等な秤に乗せることもできそうにない。
そう心配していたが、それはまさしく杞憂だった。
「ルネ」
確かに聞こえた言葉に、一瞬脳が理解を拒否する。
「すまないな。良く聞こえなかった。もう一度言ってもらえるか」
「ええ、もちろん。ルネです。あの子はあなたの罪の象徴。彼女こそが罰ですよ、アルバート様」
「それは……ずいぶんと手厳しい罰だな」
「そうでしょう。会心の一発ですよ」
拳を握って軽やかに振って見せるコルネリアに、アルバートは声を上げて笑った。
コルネリアも満更でもないようで楽しそうに笑い、居住まいを正す。
「あの子を――いいえ、私達を守るために進んでください。それが私と貴方様の契約です、アルバート様」
「そうだな。ああ、そうだった」
「忘れる度、私が頬を叩いて差し上げますよ」
本気なのか冗談なのかいま一つ分からなかったが、アルバートにとってはその言葉は何よりも心強い。なんとも情けない話ではあるが、彼女の平手はそれほどに重く、重要に思えるのだ。
「良き契約を結べて幸せだよ、コルネリア」
「ええ。私もです」
微笑む彼女は天性の人たらしなのだろう。
だがいいようにやり込められてばかりというのもいささか憎らしい。しばし頭を巡らせ、少しばかり悪戯をし返そうと決意して体を動かす。
「ところで、コルネリア」
「なんでしょう、アルバート様」
コルネリアの瞳を覗き込むと、息がかかるほどに距離が近づいた。
さきほどまでの会話に興奮しているのか、コルネリアはまだその距離を意識していないようだった。
これならば勝負は勝ったも同然、あとは最後の一手を繰り出すだけである。
アルバートは会心の一撃が決まることを確信し、耳元に囁きかけるように一つの疑問を投げかけた。
「この距離は一般的に愛を囁く距離だが、どう思うかね?」
「あ、愛――ひへぇぁっ!!」
素っ頓狂な声を上げて後ずさったコルネリアは、まさしくアルバートの思い描いた通りの反応で、悪戯の成功を喜ばせた。
可愛らしい共犯者様の存在はなんとも心地よい。
これから先、己自身も気づいていなかった弱い心を押し殺して世界平和を推し進める。
きっと、兵士だけではない、多くの民が死ぬのだろう。
己の力があれば全て守り通せるなどと傲慢でしかなかったのだと悟らされたのだ、それは火を見るよりも明らかな事実としてアルバートを確信させていた。
ならば、己の弱き心は傷つくに違いない。
己の不甲斐なさにむせび泣き、慟哭することだろう。
果たして世界平和がなされた時、己の心はどれほどに傷ついているのか想像もつかない。あるいはすでに心が死んでいるのかもしれない。
だが、それでもだ。
少なくとも、一人ではない。
共に世界を平和に導く共犯者の存在に、アルバートは深く感謝していた。
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