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雪降る幻夜
北の大地、箱館山の麓。
造船所がある港を見下ろすように、元町公園はあった。
通称『元町地区』
観光都市である箱館のなかでも、元町公園周辺は異国情緒が漂う景観地区で、とくに人気の高い散策スポットだ。
和洋折衷建築の歴史ある家屋が現存し、当時の面影をそのままにした建屋の多くが重要文化財の指定を受けている。
元町公園までのいくつかの散策ルートは、どれもこれも傾斜のある坂道となっていて、なかでもメインストリートである石畳の道は、もっとも傾斜がきつい。
えっちら、おっちらと坂道をのぼる観光客は、広い道の両脇に並ぶ、花屋や雑貨屋、洋菓子屋といった小さな店を眺めながら、ときに寄りながら、公園を目指すのだ。
そんな急坂の一角に『箱館元町珈琲茶房』はあった。
木造二階建て。ミントグリーンの外観を持つ洋館も、もちろん重要文化財の指定を受けている。
雇われ店主である倉橋花純24歳は、ここで特段こだわりのない珈琲を淹れていた。
珈琲と既製品のケーキがメニューに並ぶ店の営業日は土曜、日曜、祝日。観光地という好立地にありながら、商売っ気はまったくない。地元住民からはオーナーの道楽だと揶揄されて久しい。
そんな茶房の向かいには、元町地区のランドマークである『旧箱館迎賓館』が、でーんと建っている。
色鮮やかなブルーグレイの壁とレモンイエローの柱。窓枠が目を引くコロニアル様式の洋風建築は、当然ながら国の重要文化財に指定されており、観光産業を主な財源とする箱館市のなかでも、夜景と五稜郭に並ぶ、エース級の見どころ施設、つまりドル箱施設である。
立地は本当に素晴らしいのだ。
「カスミちゃん、大学を卒業したら、住み込みで働いてくれない」
伯母であり、資産家であり、道楽家でもある茶房のオーナー。松風稜子に声を掛けられたのは、カスミが大学3年のとき。
「就職が決まらなかったら、是非お願いします」
冗談で云っていたことが現実になったのは、大学4年の冬だった。
世界規模の金融破綻がつづけざまに起きて、国際情勢は瞬く間に大荒れとなり、カスミは内定していた企業から「誠に申し訳ありません」と内定取消しの連絡を受け、そのまま卒業の日を迎えた。
それから1週間後。
「わたしでよければ、よろしくお願いします」
稜子に連絡したカスミは、『箱館元町珈琲茶房』の店主の内定を即日もらった。
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