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平日。
まだ暗い早朝。
母はもう既に起きて、台所に立っていた。いつもの、具沢山なくせに何の味もしない味噌汁をせっせと作っている。少し申し訳なくなりながらも、「朝練言ってくる」と声をかけた。
「えっ? こんなに早く?」
「うん。言うの忘れてた。朝御飯、いいから」
「もう少しで出来るよ」
「いつも熱くて直ぐ飲めないもん。冷ましてたら、ますます出るの遅くなっちゃう」
スムーズに行かないことに苛立って、玄関に向かう。「お弁当はー?」慌ててついてくる足音に、やっぱり苛立つ。
「購買でパン買うからいいよ。たまには、食堂とかで食べたいんだよね」
傷付いただろうか。冷凍食品の多いお弁当だけど、それでも毎日、欠かさず用意してくれていた。『毎日弁当』なのが、母のこだわりなのか、節約の為なのかは知らないけど。
直ぐ後ろに立つ母の顔を振り返らずに玄関を出る。「いってきます」は辛うじて言い残す。「行ってらっしゃい」に被せてドアを閉める。
傷付けたかもしれない、事に傷付く自分が嫌いだ。罪悪感を苛立ちに変えて、イライラとしながら自転車の鍵を開ける。
いつもの通学路を、気まぐれに逸れる。
朝練、は、嘘だ。
いや、嘘ではないが、流石に早過ぎる。
私の家から、私の通う高校までは自転車で三十分程かかる。時に驚かれる距離ではあるが、慣れてしまえばなんて事はない。
日中はまだ暑いが、早朝は段々と涼しくなり、こんな時間には半袖では寒いくらいだ。私は、冬の朝、肌を刺すような寒さが、心がすっとする感じがして好きだった。暮れるのが早いのは勿体無い感じがするけど。早く、冬になればいい。
何処に抜けるのか気になっていた小道を曲がる。何処で抜けようと、方角的には間違っていないので大きく遠回りになると言うことは無いだろう。行き止まりで無ければ。
普段は大通りの側の道を走っていくので、それを逸れた道は車通りも無く、驚く程静寂で、暗闇も深い……気がする。
寂れたアパートや、トタン屋根の平屋なんかがポツンポツンと建っている。まるで、此処だけ時間が取り残させたみたい。少しだけ、背筋がぞくりとした。前へ前へと促すような街灯の心許なさが、まるで現世から別の世界へと誘っているよう。
自転車のハンドルを握る手すら、薄暗闇に心許なく映る。
このまま、消えてしまったらどうしようか。
神隠し、なんて。そんな妄想をして、腕が粟立つ。怖がりなくせ、そんな妄想をするのは好きだった。
此処では無い、何処かへ。
そんなことは、わりといつでも考えていた。
つまらない毎日。味気ない日々。つまらない私。居なくなっても、泣いてくれる人なんて居ないんじゃないのか。
死にたいとは思わない。でも、痛み無く消えてしまえるのなら、それはわりと本望だったりするかもしれない。
こんな、親不孝で、他人の事をめんどくさく思うような、心の醜い私。消えてしまえ。
本当は、そんなことを思っていたのだなと自覚する。
可もない不可もない、私。
自分の事は別に、好きでも嫌いでもない。
ぞくり、と一層背筋が震えたのは、その時だった。
まだ、痩せこけた三日月が白っぽく浮かぶ空を背景に。そのアパートは静かに佇んでいた。
コンクリート打ちっぱなしの、横に長い二階建て。所々、蛍光灯の切れたところがある。暗闇に溶けているのに、変に存在感を放つ。見えないのに錆びているだろうとわかる、外階段。
「何か、用?」
「ひっ…!」
その空間を囲うように、同じくコンクリートで出来た
塀の上に、少年が座っていた。
心臓が止まるかと思った。ひきつったままの顔で、彼を見上げ、凝視する。
少年、と思ったその人は、よく見ると年頃は近そうだった。嫌に細身で、色白い。闇に溶けそうなのに、変に存在感を放つ。まるで、そのアパートを擬人化したような印象を受ける。このアパートの精霊か、それか、幽霊。
「……あ、いや、……」
「ここ、危ないから。もう来ちゃダメだよ」
こちらも向かずに、彼は言う。
静かな声にはあまり抑揚がない。
危ないって?訊こうと思った時、彼の目がちらりとこちらを確認して、目が合う。ぎょっとしてしまって、暫くその目を逸らすことが出来なかった。黒く塗り潰された漆黒。心許ない月明かり、街灯、それらを反射して光ることはない。息を飲む。
「………幽霊みたい………」
抑えきれずに溢れた言葉に、彼は初めて目を丸めて、くすくすくす、と笑った。意外と、少女みたいな笑い方だ。童顔なせいか、笑うとより幼い印象を受ける。
「そうそう。此処には、幽霊が出るから。もう、来ちゃダメだよ」
「……」
その、非現実的な空気に、背筋を凍らせながらも、心臓は恐怖とは違うものでどきどきと脈打っていた。
ああ、そうこれだ。これ。生きている、って感じがする。
ぞくぞくと粟立つ肌も。紛れもない私のもので、安心するのだ。私は確かに、此処に居て、ちゃんと感情を持っているのだと。
「貴方が、幽霊なの?」
「…………だとしたら?」
すてき、とため息混じりに、まるで自分のものとは思えない声が出た。うっとりと、夢見心地だ。
幽霊ってもっと、邪悪か、寂しい感じなのかと思っていた。けれど彼は、話してみると意外と親しみやすそうだ。これからも話がしてみたいと思った。
こんな、人生のささやかな余興のような出来事。きっとこの先、何処にも落ちてはいないだろう。
逃したくない、と思った。
私のことを知らない彼と、彼のことを知らない私と、空想みたいな現実で。妄想を壊さずに喋る時間。
「明日も貴方は、此処にいるの?」
「…………」
「明日も来ていい?」
「…………」
急にだんまりを決めた彼に、同調したように、外気もひんやりと冷たくなっていく。
明日も来るから、と言い残す必要もないだろう。好きにしたらいい、と彼も思っていそうな顔だった。行く・行かない、なんて結局、誰が決めるわけでもない。私が決めることだ。
「それじゃあ。お邪魔しました」
地につけていた足を浮かせ、ペダルを漕ぐ。
冷たい空気を切るように進む。何と無く、振り返らなかった。
『○日 未明、アパートの一室で、中学生とその母親と見られる女性が倒れているのを、訪れた警察が発見しました。尚ーーー』
その日の夜に放送されていた地元のニュースを、私は見逃していた。
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