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魔法の言葉、もう少しだけ。
もう少しだけ。
それは、わたしの口癖。
小さい頃、わたしはこの言葉に魔法の力があると気づいた。
優しい両親は、わたしが「もう少しだけ」とねだると、困った顔をしながらもお菓子をおまけしてくれた。
ゲームは三十分まで、と決められていたけれど、わたしが「もう少しだけ」とお願いすると「じゃあ、次のセーブポイントまでね」と、時間を延長してくれた。
ああ、なんて素敵な言葉なんだろう。
物事には限界があると言うけれど、この言葉には、それをほんの少し遠ざける力がある。
そういえば、受験勉強で苦しかったときも、わたしはひたすらこの言葉を唱えていたっけ。
もう少しだけ、頑張ろう。
そう口にしながら睡魔と戦い、見事、志望校に合格した。
この言葉は、決してわたしを裏切らない――……
「ん、どうした……?」
わたしははっと現実に引き戻される。
わたしの唇からゆっくりと顔を離した夫が、ふしぎそうにこちらを見ていた。
わたしは、ふふ、といつもと変わらない笑みを浮かべる。
「なんでもないわ。ねぇ、もう少しだけ……」
すると夫は、ああ、と心得た顔をし、ふたたびわたしの唇をふさいだ。
「きみは、ほんとうに欲しがりさんだね」
結婚してから、何ひとつ変わらない笑みを浮かべながら、夫はわたしを抱きしめてくれる。
「じゃあ行ってくるよ」
「ええ、気をつけてね。行ってらっしゃい」
夫を見送ったわたしは、家の仕事をひととおり終えてから、ほっと一息つく。
鏡にうつる自分を見ながら、黒くて細い物体を、ドレッサーのうえでもてあそぶ。
リビングで見つけた、平穏な日常に紛れ込んだ異物。
私のものではない、ヘアピン――……
おそらく、わたしが数日家を空けたときのだろう。
実家へ行きたいと言ったわたしを、こころよく送り出してくれた夫――……
疑念は確信へと変わっていた。
引き出しから、小さなガラス瓶を取り出し、眺める。
この中には、すべてを終わらせる、禁断の粉が入っている。
透きとおった瓶を傾けると、さらさらと音が聴こえるようだった。
「もう少しだけ……ね?」
魔法の言葉をつぶやき、わたしは瓶をあるべき場所へ戻した――……
~おしまい~
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