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 気を失ったように眠りについた私は、彼からの電話で目を覚ました。相変わらす温度のない声で、指定した場所まで来るように告げると、一方的に切られた。それでも、もう彼には会えないと、心のどこかで覚悟していただけに、彼からの電話は、独り置き去りにされた寂しさを一瞬で消し去り、また会える喜びに変えた。  まだ彼の感覚が残る身体を起こし、シャワーを浴び身支度を整えていると、見えない鎖が無くなった身軽さに気が付いた。  社長に同性愛者であることを脅されて自らつけた首輪は、彼に助けられながらも自分の手で外せたんだ。  爽快な気持ちで明るい日差しの中に出ると目が眩んだが、以前は苦手だったこの太陽の光も、今は何だか愛おしい。うるさい車のクラクションの音も、ぶつかって来たのに睨む通行人も、何もかも私には昨日とは違い、抱きしめたくなるような感情が湧き出る。  昨日と変わらない街の空気を体いっぱいに吸い込んだら、今まで忘れていた笑顔がこぼれた。その笑顔は根拠のない「希望」となり、温かい血液となり体中に廻った。  呼び出された場所は、高級クラブが多く集まる界隈にあり、その中でも一番高級そうなクラブだった。はまだ準備中で看板の電気も付いていないが、扉に鍵はかかっていない。  小さく「失礼します」と声を掛けてうす暗い店内を進むと、フロアに入ったところに彼がいた。  「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」  昨日と似たようなダークカラーのスーツに身を包んではいるけど、いつもとは違う髪型の彼が笑顔で私を迎え入れると、ハグをする事も無く、業務的な対応をして、奥へと進める。  「失礼します」  会えた嬉しさを素直に笑顔で表して、進められるままに奥へと進むと、重厚なソファーに、光沢のある真っ黒なドレスをまとった綺麗な女性が座っていた。  「貴方に会えることを楽しみにしていました」  女性は、真っ赤な唇を綺麗に上げると妖艶に微笑んだ。  妖艶な中に品のある物腰が仕草と言葉で感じ取れると、何者か分からない怖さよりも、根拠のない信頼感が芽生えた。  「私の事はもう全てご存じでしょうし、自己紹介も必要無いですよね」  私は女性に習い、微笑みながら言葉を返す。  「そうね。貴方のことは、品川よりも知っているかもしれないわ」  女性が彼に視線を向けて「品川」と言ったのを見て、初めて彼の名前が品川だと知った。  「ボスは、貴方を高く評価しています。これからは、ボスの下で働きませんか?」  品川は私に花のような笑顔を見せながら勧誘する。  「私は貴方を鎖でつなぐような事はしない。だから、気が進まないのなら断ってもいいのよ。どうか、貴方が心から望む答を聞かせてちょうだい」  ボスと呼ばれた女性から出るオーラは、微笑んでいるのに女王様と呼んで跪いてしまいそうになるくらい、圧倒的なものだった。  しかし、それに気圧された訳では無く、単純な好奇心から私は断るよりも先に質問した。  「私は、どんな仕事を?彼のように人を惑わす術は持ち合わせていませんが」  「ウチの本業はクラブやバーの経営なのよ。お客様の要望を聞いているうちに、お店の経営だけじゃ無くて、品川の仕事のようにお客様の要望を叶える、何でも屋みたいなことまでするようになってしまったけれど。だから貴方には、男性専用のSMバーの支配人になって貰いたいの。」  「支配人?」  馴染みの無い職種に眉を潜めると、品川は柔らかい笑顔で私の懸念を否定する。  「直ぐにという訳ではありません。今はまだ準備段階ですので、店も準備中です。まずは研修がてら、Queen♕で大体の仕事を覚えてもらいます。ウチは従業員もお客様も愛を持って対応しています。だから、自分を殺すようなことをせず、貴方のままでいられるその店で働いてみませんか?」  「どうして、私にそこまで…?」  季里子を陥れるために、私が良い働きをしたとも思えないのに、待遇が良すぎて怖くなる。  「季里子はもう、社長の座には戻れない。あの会社は事業の多角化を進めている本田さんの手に渡る事になるでしょう。そうなると、何もかも知っている貴方が働くのは難しい。でも、優秀な貴方が自我を隠して他の会社で働く姿は可哀そうで見ていられない。だったら、全てをさらけ出して、ウチで働いて欲しいと思ったの。貴方の容姿は私の思い描く支配人像にピッタリなのよ。スーツの似合うすっきりとした体のシルエットも、抑圧的な眼差しも、形の良い耳も、眼鏡が似合うインテリジェンスな雰囲気も」  本田とは、あのハニートラップにかけそびれた、あの本田さんか?  まさか、本田さんまでこの人と繋がっていたとは、驚きだ。それなら、時田様も?  「事の全貌をお聞かせいただけますか?そうでなければ、答が出せない」  「いいでしょう。品川、説明を」  指示を受けて品川は、きっちり締めていたネクタイに手を掛けると、引っ張って緩めた。そしてクシャっと人懐っこい、子犬のような笑顔になって、砕けた口調でボスに言った。  「ボス、もういいでしょ。ボスと一緒じゃこんなプレイ、笑っちゃいそうになるから続けられない」  「もう、品川はわがままなんだから。せっかくの重厚な雰囲気をもっと味あわせて」  ボスはさっきと変わらない微笑みを携えながらも、口調は柔らかい。  「そういうのは、恋人達とプライベートで楽しんでよ。ボスの僕になりたい輩はうじゃうじゃいるんだから」  「久しぶりに品川と遊びたかったのよ、私は」  「はいはい。もういいいから、シャンパンでも飲んで大人しくしてて」  彼は細いシャンパングラスに泡を注ぐと、流れる仕草でボスに手渡した。  ボスは、微笑んで受け取ると、この上なく妖艶な仕草で一口飲んだ。  「松岡さんは、こちらにどうぞ。シャンパンよりも紅茶の方が好きでしょう。この紅茶は、オレンジベルガモットの香りが素敵なんだよ」  品川は私をソファーに座らせると、香り高い紅茶を運んで来て、自信も私の隣に腰を下ろした。  「まず、本田さんの件ね。あれは女の子の方が、急ぎでお金が必要だとQueen♕の面接に来てね、合格を出したんだけど、急いでる割には直ぐには働けないというので、詳しく理由を聞いたら、本田さんをハニートラップにかけなければならないと言う事だった。本田さんはウチが経営するこのクラブの常連さんでボスとも顔馴染だったので、危険な罠が張られていることを教えてあげた。でも、季里子の名前が挙がった途端に、こちらに仕事を依頼してきた。季里子の会社は貴方もよくご存じの通り、業績も人材もいい上に時田さんの後ろ盾がある。もともと事業の多角化を考えていた本田さんは、季里子の会社を手に入れることで、時田さんとの繋がりも持てると考えたんだ。そこで、こちらに策を練って欲しいと頼まれた。だから、二人には季里子の作戦通り食事をして、お酒を飲んで、ホテルの部屋まで行ってもらったんだよ。  本田さんはもちろん彼女に手を出すどころか、優しく諭して事なきを得た。彼女もこちらのアドバイス通りスマホの電源を落としてから、本田さんと別れた足で自殺の名所で死んだことにして、そこでピックアップした。もちろん今も生きていて、Queen♕とは違う店でM嬢の見習い中。」  「えっ?じゃぁ、あの水死体の写真は?」  彼に渡された写真のデータを思い出しながら、あの無残な写真を思い出す。  「あれは、本物の水死体と彼女の写真を合成したものなんだ。顔があれだけ酷いと、しっかり見たく無いからあんな合成でも騙されるでしょ。本田さんと彼女には、貴方とつながるためのネタになってもらったんだ」  確かに、この一軒で、私はQueen♕の名刺を手に入れた。  彼らの意のままに動かされていた事実に驚きながら、品川を見たが、彼は得意そうに肩をすぼめて可愛い笑顔をこぼすだけ。  私が恋をしたクールな彼からは想像もできなかった姿に、まだ違和感を覚えながらも、さらに話しの先をせがんだ。  「じゃあ、時田様の件は?」  「あれは、前から相談されていた事だったんだ。時田さんはウチのSMクラブのVIPでね、ボスとは懇意なんだ。それで、季里子の事はもう随分前から聞かされていて、ボスと二人でコソコソやってたんだけど、季里子がなかなか落ちないから、時田さんが我慢できなくなってね。2年前に娘さんが離婚して孫を連れて帰って来たこともあって、色ボケで仕事に影響を及ぼすバカ息子に地盤を継がせるよりも、無くなった奥様の代わりに時田さんを支えてくれる娘に地盤を継がそうと考え直したんだ。それに世間は女性の国会議員の議席を増やせと言い始めたでしょ。その風に乗るには今が良い時期だと判断した。それで、息子をお払い箱にするためにも、あの記事が必要になった」  「でも、あのネタは消去した事になっていたはずなのに、どうしてまだ有ると思ったの?」  季里子の仕事で唯一全てを知っている私でさえ、あのネタはもう存在しないと思っていたのに。  「あの季里子がそう簡単に捨てるわけ無いだろ。狙い通り、自宅の宝石箱の中に仕舞ってあったよ。」  「社長の自宅に入ったの?」  社長の自宅は、家政婦以外、入った人はいないはず。  「季里子は可愛いペットを欲しがってたから、俺がそのペットになって癒してあげたら、意外と簡単に入れてくれたよ。貴方は社長の季里子しか知らないかもしれないけど、ペットに見せる顔は、ごく普通の女性だったよ」  品川は少し首をかしげて、子犬のような笑顔を見せた。  彼が社長をも翻弄していたなんて、その事実に驚くと共に、同性愛者でない事にも驚いて大きく目を見開いた。  「社長も抱いたの?」  そんなこと、確認しなくても分かっているのに、彼の口からハッキリと聞きたくて、質問してしまった。  「それはご想像にお任せします。でも俺自身の事を教えると、男も女も関係なく性的な魅力を感じられれば、抱きたいと思う。もちろん、愛のあるセックスしかしないよ。それは、貴方が一番感じたでしょ?」  品川の目があの、冷たく誘惑的な光を放つと、昨夜の快感が体の奥に蘇った。そう、あれは激しい中に真っ赤な薔薇のように燃える、愛があるセックスだった。  「そう。失礼な事を聞いてごめんなさい」  「ううん」  私は機嫌を直して、もう一つ気になっていた事を聞いた。  「社長をよくご存じなんですね」  今度は品川では無く、微笑みながらシャンパンを飲んでいるボスに視線を向けて聞いた。  「ええ。彼女がホステスをしていた頃からよく知ってるわ。野心がとっても強くて自分が№1になる為なら、枕でも脅しでも何でもする子だった」  「社長は貴女の店で働いていたのですか?」  「いいえ。季里子は大学生になってすぐから卒業まで、ライバル店の№1だったのよ」  「では、社長は貴女の事も知っているのですか?」  「まさか。季里子が店いた頃には私はもう経営の方に集中していたから、お店は信用できるママに任せていたわ。でも、季里子の悪評は私の耳にも入ってきていた。うちの常連様にも手を出すこともあって、相談は受けていたけれど、私、野心のある子はキライじゃ無いの。だから好きにさせておいたのよ。それなのに、水商売を辞めて会社を経営し出したら、以前とは比べ物にならないくらい悪い話を耳にするようになった。ハニートラップ請負人が、ターゲットのみならず、仕掛け人までをボロボロになるまで食い潰してるって。だから時田さんと一緒にお仕置きする方法を考えていたの」  「もしかして、時田様の息子に仕掛けたハニートラップもわざとかからせたのですか?」  「それは違うわ。息子さんは本当に女の子が大好きだから、季里子以外にもたくさんスキャンダルはあったのよ。その中にたまたま季里子のにも引っかかてしまったの。でも、今まで全部のスキャンダルを握りつぶしていたんだから、時田さんの父親の愛はすごいわよね」  「そうですね。でも、その愛は、娘さんのほうに注がれることになったんですね」  惜しみなく注がれていた愛を急に失う喪失感はいかばかりかと、どうしようもない息子でも、少し気の毒に思えた。  「突き放すことも、一つの愛なのよ」  ボスは微笑みながらも、はっきりと言った。  ボスの圧倒的なオーラと強さは、季里子なんて比べ物にもならなかった。  「探偵が手を引くように言ったのは、貴女の存在を知ったからなんですね。社長も貴女の存在を知っていたならば、もっと早く手を引いていたかもしれません」  ボスの圧倒的な権力を知り、同情の余地も無いと思っていた社長が可哀想に思えた。  「季里子は本当の痛みを与えなければ、他人の痛みが分からない女です。一度手を引いてとしても、同じことを繰り返すでしょう。それをさせない為にも、時田さんのお力が必要だったのよ。それに、こんな素敵な貴方を窮屈な首輪で繋ぐなんて愚行は許されたものではないわ。貴方の優しさは、殺してはいけない。貴方は多くの人を幸せに出来る素質があるの。だから、自我を開放して、私の下にいらっしゃい」  「私の事は、いつから…」  「季里子に捕らえられた時から知っているわ。時田さんが気に掛けていたのよ。いつか開放してやりたいと」  「時田様が…」  「えぇ。あの方は個人の嗜好については開放的な考えをお持ちですから」  あの時、季里子に向けられた時田様の怒号は、私の怒りを代弁してくれたものだったのかもしれないと思うと、季里子に捕らえられていた時間も報われた気がした。  私は、一人で孤独だと固い殻に閉じこもっていたけれど、その殻を温かい愛で包んでいてくれた人たちがこんなにもいた。品川が、時田が、本田が、ボスが、差し伸べてくれてた手を掴むことが出来て、私は幸せだ。 そう思うと、ただ苦しみを与え続けた存在の季里子でさえ、愛おしく思えた。  「一人でも多くの人に幸せを感じて欲しい。それは、私の新しい希望になりました。」  「そう。素敵な希望ね。では一緒に、お客様を愛しましょう」  ボスはシャンパングラスを、私はティーカップを持ち上げて微笑んだ。
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