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 最近、仕事帰りに立ち寄るお店が出来た。  欅並木がある大通りから少し奥に入った、住宅街の入り口にある控えめな店構えで、店の名前は欅並木にちなんで「欅ーケヤキー」と言う。  昼はカフェと言うより、ちょっと小洒落た定食屋のようなメニューを出し、若い人達からサラリーマン、余生を楽しんでいるお年寄りまで幅広い人達が来店する。  でも、18時からの夜の営業はバーがメインで、落ち着いた照明の店内は大人の時間を作ってくれる。  今日も自宅のマンションの前で車を降りたけれど、足はエントランスには向かわずその店へと歩き出した。  徒歩5分。  夜の澄んだ空気で、体中に纏わりついた仕事の匂いを落としながら、ゆっくりと歩く。15分前にオフィスのフロアで鳴らしていた靴とは別物のようにアスファルトに当たるヒールの音は、柔らかい。  私は秋の風を深く息を吸い込んで、体中に溜まった黒い感情を吐き出した。  「いらっしゃいませ」  店の中に入ると、マスターの落ち着いた声が迎え入れてくれた。  私は定位置になりつつあるカウンターに真っ直ぐ進み、「ハイボール、いつもので」とバーボンのハイボールを注文する。  「ありがとうございます」  マスターは笑顔でオーダーを受けるとすぐに作り出した。  店内を見渡たすと、客はテーブル席に2組だけで、そんなに忙しそうでは無い。  「季里子(きりこ)さん。いらっしゃい」  カウンターから出て私に駆け寄って来たのは、アルバイトの瑛士(えいじ)君。  「この前、教えて貰ったチョコレート、スゲー高かったけど、お母さん、大喜びでした。これでしばらく、仕事の事、うるさく言われないと思います。ありがとうございました」  少し明るめの髪には緩くパーマがかかっていて、スリムで背が高い割には、明るい笑顔とゆっくりとしたテンポで話すから威圧感は無く、逆に可愛い印象の男の子。  「良かった、瑛士君のお母様のお口に合って。じゃあ、次はワインにする?」  「ワイン?もっと高そー。今度はもうちょっと、リーズナブルなの教えてくださいよ。」  瑛士君の向日葵みたいな笑顔は、とっても人懐っこくて、子犬が遊んで欲しくてじゃれついてくるみたいで、癒される。  「瑛士がちゃんと就職したら、定期的に親のご機嫌取らなくても良いんじゃないか?」  マスターが注文したハイボールを出しながら、私の隣に立つ瑛士君に注意した。  「だって、就活の時、みんなの自己PR聞いてて、気が付いたんですよね。僕って真面目に大学生しすぎて、全然面白みのない人間だなって。だから就職しないで、海外行って経験値高めようって。そのために今、バイト頑張ってるんですけど、最近、飲食業が向いてるんじゃないかって思い始めてるんですよね。ここの仕事、すっごく楽しいし」  瑛士君は注意されたのに気にする事なく、逆に、マスターのご機嫌を取るような事を言う。  そうと分かっていながらも、マスターはまんざらでもない微笑みを見せながら「調子いい事ばっかり言うな」と諌めて、私を見て肩をすくめて謝った。  「すみません。入って来るなりうるさくて」  「ううん。元気な瑛士君見てると、私も元気になれる」  微笑みながら瑛士君を見上げると、更に笑顔の花を咲かせて得意そうに口を開いた。  「だったら毎日来てくださいよ。そしたら、仕事での嫌な事とか忘れさせてあげますから」  「言い過ぎだ、瑛士。ここはホストクラブじゃ無いんだぞ。季里子さんが来てくれるのは、俺が作る酒が目当てなんだよ」  マスターは少し呆れながら、瑛士君を窘めると、テーブル席のお客さんの「すみません」の声に瑛士君に行くようにと、顎を少し上げて指示した。  「はーい」  瑛士君は私に肩をすくめて苦笑いをすると、テーブル席に向かった。  私が初めてこの店に入ったのは、5月なのに夏のように熱い日差しに、うんざりした頃だった。  春が終わりを告げそうな休日の夜、何軒もペットショップを見て回り、何匹もの子犬と運命の出会いをしたのにも関わらず、飼う事をまだ決断できずにいた日に、店の前に繋がれていたヨークシャーテリアが可愛くて、思わず近寄って構っていたら、お皿に水を入れたマスターが声を掛けて来た。  「すみません。吠えたりしませんでしたか?」  顔が小さくすっきりしたバランスのいいスタイルに、顎にだけ髭を生やしているのに清潔感があり、小ざっぱりとした40代半ばくらいの男の人は、デニムのシャツに黒のギャルソンエプロンを巻いている、いい男だった。  「あぁ、ごめんなさい。可愛かったからつい」  マスターは犬の前にお皿を下ろすと、優しく背中を撫でながら、私に話しかけた。  「この子が迷惑かけて無くて、良かったです。犬、お好きなんですね」  「はい。今、飼おうかどうか迷っていて」  「そうですか。」  「この子、あなたの犬ですか?」  「いえ。お客さんのです。散歩の途中にうちが有るから、時々生ビール1杯だけ寄り道してくれるんです。その間、この子はここでお留守番なんですよ」  「生ビールって、ここ、カフェですよね?」  私は店を指さして首を傾げた。コーヒーや紅茶はあっても、お酒を出している雰囲気はとても無い。  「昼は定食屋ですが、夜はバーなんです。良かったら、1杯いかがですか?」  マスターは優しく微笑んで、私を店に招き入れた。  定食屋がするバーなんて、居酒屋みたいなものだろうと思いながら入ってみれば、意外と落ち着いた店内に、意外と美味しいお酒が出て来て、驚いた。  以来、お酒だけを飲みに来るようになって、私の定位置がカウンターのこの席になった夏の始めに、英二君と出会った。  「瑛士は今まで昼に入って貰ってたんだけど、夜に入って貰ってたゆかりちゃんがケガで入院することになったんで、瑛士が代わりに入ることになりました」  「ゆかりちゃんが言ってた通り、ホントに季里子さんは綺麗なお姉さんですね」と初対面で言われて、驚いたけど、その人懐っこい笑顔に、嫌な印象は受けなかった。  以来、私の足は以前にも増して、この店に向くようになった。
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