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「それで話は戻りますが麗卿の棺は湖心寺という湖畔の寺に安置されていました。極めて湿度が高い。だからその遺体は瑞々しかった」
「うん? 湿度? そうすっとひょっとして死蝋化したのか? けれどもそれなら何故俺や伊左衛門の元には骨の姿で現れる」
死蝋化。
高湿度や高乾燥等の理由で腐敗菌が繁殖しない中で脂肪が変性して蝋化や鹸化を引き起こす。日本でも沼地の底には古代の死体がそのままの形で埋まっていることがある。
「死蝋って環境変化に弱いんですよ。温度や湿度、掘り出すだけでも場所を移すだけでもすぐ崩壊する。そんな屍蝋が無事に日本海の荒波を渡ってこれるはずがありません。だから哲佐君や伊左衛門氏が見たのは髑髏という麗卿の残滓なのでしょうね」
遠い海を渡ってその身を崩壊させながらも捨てた男を探している。何百年も昔から。
東回り航路で那珂湊まで至り、ここから更に水戸に向かう汽船に乗り換える。
その度にふよふよと俺の隣に浮かびついて来る髑髏に昏い気持ちとともになんともいいようのない寂寞の思いが浮かぶ。
今俺と鷹一郎は伊左衛門が仕事をした水戸に向かっている。東京の仕事と同じように、伝手を頼って依頼され、伝手によって水戸市街に売却された。
「伊左衛門はなんでそんな遠いとこから来たもんに引っかかったんだ」
「手に入れて売り払ったからです」
「何を?」
「棺桶を」
棺桶を? そんなもんリサイクルするか?
それにそんなことすりゃ取り憑かれて当たり前だ。馬鹿馬鹿しい。
「棺桶だと思わなかったのですよ。ほらここ、與女之屍俯仰臥於內ってあるでしょう? 哲佐君は棺桶ってどういう形だと思います?」
「そりゃ桶だろ。座って埋める」
「日の本だと座棺ですよね。でも海の外では異なる。仰臥というのは仰向けに寝転がること。つまり中国の古典、この話は元代ということになっていますが元は火葬だそうですからその前の宋の文化が残っているのでしょう。それで宋の棺は寝棺です。人が寝転がって収まる大きさ。そんな大きさの家財、ありますよね」
「……長持か」
つまるところ、伊左衛門は家財一式の売却を請負い、その中にその長持があったのだ。
伊左衛門の仕事ぶりは極めて丁寧らしい。中古品というのはその使用感や見た目で大きく価格が異なる。伊左衛門はおそらくその棺桶を丁寧に扱ったのだろう。綺麗に拭いて、美しく飾り、だから取り憑かれた。
不条理だな、本当に。
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