序 闇の底

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序 闇の底

 ……いまぁ……どちらにぃ……おられますのぉ?  ……旦那さまぁ。  解釈するとそのような意味合い。  間伸びして、くぐもったか細い声が聞こえる。  その声は断続的で、時折呂律が回っていない。いや、呂律が回っていないというよりは、発声器官はすでに腐り落ちているのだろう。それでも聞こえる微かな声音。  墨をこぼしたような闇の中、うすらと滲む朧月の明かりを受けてその折れ曲がった背がずぞぞと蠢くのだけが僅かに見えた。強い膿と肉の腐った匂いが夏の湿度にじりじり混じりて浸透し、じわりじわりと俺の皮膚にも絡みつく。  曲がりそうになる鼻から息をするのを諦めてうっすらと口を開けるとうぷりと嘔吐感が迫り上がってくる。結局同じなのだ。その腐りを鼻から入れるのも口から入れるのも。  けれども俺は知っている。物音さえ立てなければ問題は何もない。近くにやってきても俺に気がつくはずもない。美味そうな匂いが漂っている、だけ。  ……らんなさまぁ……ヒ、ヒ、ヒゥ……  笑い声なのか悲鳴なのか、あるいはただどこかから空気が漏れているだけなのか、その音は少しずつ俺のすぐそばにやってくる。直視しないよう、目の端だけでその姿を追う。上品そうな緑の羽織はずるずると引きずられて半ば脱げ落ち大振袖のよう。それが黒ずみ腐汁に塗れてまだらとなっている。  目を皿のようにして見つめるが、もとよりそこは闇の底。それが伸ばす骨と化した指先近くには、薄ぼんやりとした赤い光。かすかな明かりが当たる分しか視界は開けない。  そしてそれはずいぶんゆっくり時間をかけてそのあたりをうろうろした後、急にパタリと何かを仕舞うような音が響いてあとは静寂。  そしてチリンと鈴の音がなり、カラリと障子が開けられて見上げるとその奥には小さな庭とどこまでも明るい満月の光、そして見知った男の影が見えた。  綺麗な風が吹き込んだ。 「哲佐(てっさ)君、わかりましたか」 「わかんねぇ。まるで沼の底だ」 「沼の底、ね。言い得て妙。では月はどちらに見えました?」  思い起こして指差す。そしてそれは今室内を照らしている満月とは異なる方向だった。 「月の位置を前提に、ソレがいた方角はわかりませんか」  少し考えて部屋の天井近くを指し示す。普通に考えれば上に向かうはずもない。正直なところ、あの闇の中では上も下もわからなかった。水の中にいるような。 「その(かまち)の辺りから動き出して同じ辺りに戻った気がする」 「伊左衛門(いざえもん)さんも同じでしょうか?」 「ち、違いねえ!」  部屋の隅の暗がりでは伊左衛門が札を握りしめてガクガクプルプルと縮こまっている。 「ふぅむ、やはり少し位相がずれていますね。」 「位相?」 「そう。それは本当はここにはいないんです。はてさて一体どこにいるのか」  鷹一郎(おういちろう)はそう言ったきり、何も口にはしなかった。
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