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最近、妻があまり笑わない。話しかけても最低限の応えしか返さない。原因が自分にあることは薄々感じている。
だが、こちらも忙しいのだ。妻の表情が日に日に翳っていく様から目を逸らして仕事に邁進する日々だった。
そんなある日、久々に妻と過ごす機会が訪れた。きっかけは朝刊で読んだ記事だった。
「今日の夕方、月食があるらしい」
「そうなんですか」
お愛想程度に返された相槌に、いつもなら自分が不機嫌に黙りこみ、それで会話が終わっていた。だが、その時はどういうわけか、自然と口から言葉が出てきた。
「一緒に見ようか」
顔を直視することはできなかったが、妻が驚いているのはわかった。
嫌がるだろうかという不安が頭をもたげたが、妻は案外素直に頷いてくれた。
日が沈み、二人がぎりぎり入れる広さのベランダに出た頃には、月がすでにかなり欠けていた。
「もう少しで全部欠けるな」
「ええ」妻は短く返事した。
「今日は家での仕事で好かった」
呟いた言葉に、妻は反応しなかった。
気まずい空気が流れていたが、二人とも目の前で進行しつつある天体ショーを黙って眺めていた。
月は、緩やかだが確実に侵食されてゆき、ますます細身に変身を遂げていった。
やがて皆既月食に近く月影が隠れたのを確認し、年甲斐もなく歓声を上げようとしたとき、妻がぽつりと言った。
「寂しいわ。あんなに丸かったのに」
放たれようとした歓声が喉の奥に消えていくのがわかった。
月明かりは消え、部屋の明かりを背にしているため、妻の表情はよくわからない。だが、周囲のかすかな明かりを反射して光る妻の瞳は濡れているように見えた。
ふと、このまま隠れた月が二度と戻らなかったら、と想像した。
そして妻がどんな顔をしているのか、二度とわからなくなってしまったら?
そんな考えが頭に浮かび、ぞっとした。
ありえないことだと思いながらも、妻の顔を横目で見る。
妻の表情は相変わらず見えにくい。
何故か焦りを覚え、口を開いた。
「俺もそう思う。言われてみればなんだか怖いな」
「私は寂しいと言ったんですよ」
一旦はそう否定したものの、妻はすぐに頭を振った。
「いえ、確かに怖くもありますね。当たり前にあったはずのものがなくなることって、人を不安にさせるんだわ」
独り言のように呟かれた妻の言葉に、安堵と不安を同時に覚えた。
今抱いている感情を妻と共有しているように思えた安心感。そして、妻が離れて遠くへ行くことを宣言したかのような不安。
どちらもきっと錯覚だ。
だが、ふいに途方もない事実を知った気がした。
今は当たり前のように寄り添う存在も、ある日いなくなるかもしれない。
現に、付き合い、結婚し、毎日当たり前のように見てきた笑顔を、最近はほとんど目にしなかった。
気がつけばこちらを静かに照らしてくれている、控えめに輝く微笑。
その笑顔に惚れたのに、今の自分ときたらどうか。
自分の表情が月明かりに照らされない今がチャンスだ、とばかりに口を開いた。
「最近、その……悪かったな」
「どうしたんですか、急に」
妻がこちらを見た。正面から目を合わせる勇気の出ないまま、言葉を連ねる。
「最近、家での仕事が増えて、お前に当たることも増えたから」
「気にしてませんよ」
その一言で、耐え忍ぶ妻の心の内を察した。
何も返せないでいると、妻が引き戸に手をかけた。
「食事の用意があるので戻ります」
視界に映る黒い月が、なくしかけたものを早く取り戻せとせっついているように思えた。
「俺も手伝う」
その言葉は案外すんなり出た。
室内へ戻ろうとしていた妻が、振り返った。その姿が部屋の明かりに半分照らされている。妻は驚いた顔をしていた。
「今日は本当にどうしたんですか」
「……あまり外に長居すると、冷えるだろう」
「それはそうですけど。食事はすぐにできるので、いつも通りテレビを見ていて大丈夫ですよ」
「何となく、気分だ」
心に引っかかった余計な矜持が、口を素直に動かさない。
だが、妻は何か察したらしい。
少し口元を緩めつつ、了承してくれた。
手伝いといっても大して役には立たなかったが、気まずさを振り払うかのように頼まれた作業をこなしていたら、すぐに夕食ができあがった。
普段は広げたままの仕事道具を片付けたダイニングテーブルは意外に広く、新鮮だった。
その上に、二人で作った料理が並ぶ。
まだ共働きだった頃、そういえばこんな光景が当たり前だった。
「こうしていると、なんだか久々の気分だ」
「ふふ、そうですね。結婚したばかりの時みたい」
向かいに座る妻が微笑う。その笑顔は、あの頃のように静かに輝いていた。
カーテンを閉めていて、部屋の外は見えない。
だが、月食で少しの間欠けた月は、もう元の姿に戻り始めている頃だろうと思った。
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