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逃げるのも、そんなに簡単なことじゃない。
自分で決めたことからだったら、なおさら。
晴れわたった空に手をかかげても、ぼくの血潮は見えなかった。
最寄りの駅のベンチに座り、予備校へ向かう電車を待つ。
音も人影もないホームで、コンクリートの灰色ばかりが、ぼくの目にただ映っていた。
ひざの上には英単語帳を広げていたけど、暑さのせいか、ぼくの視界はゆらゆらと揺れていて、「このままじゃ厳しいぞ」と言ったチューターの眉間のほくろとか、クラス生の蒸気を帯びた背中とか、掲示板に貼りだされた今月の優秀者名の文字列とか、母の不安そうな横顔とか、そんなものが次から次へと瞼の裏に浮かんでは消えた。
「……今ごろ、こんな町出てるはずだったのに」
小さくつぶやくと、足のあいだから単語帳がばさりと落ちた。
はあと深く息を吐き、腰をかがめたその時だった。
「雫くんは、この町きらい?」
背後から透きとおった声がして、ぼくの心臓がとくんと鳴った。
単語帳をいそいでつまみ上げてふり向くと、雨宮さんが立っていた。
予備校で、同じクラスの雨宮さん。
黒髪のボブに、そろった前髪。
その下に、意思のある薄茶色の目がのぞいている。
グレーのTシャツに、ひざ下丈のチェックスカート。
雨宮さんがそこに立っているだけで、いつもの気だるい駅ではなくなった。
「これ、食べる?」
まばたきばかりしているぼくに、雨宮さんは茶色い紙袋を差しだした。反射的に受け取ったそれは、しっとりしていて温かく、甘い匂いがただよっていた。
訊く間もなく雨宮さんはぼくの隣にすとんと腰をおろすと、自分の手に持っていたもうひとつの紙袋を開けはじめた。
顔を出したのは、たい焼きだった。
きれいな焼き色のついた肌。
雨宮さんは、頭からかぷりと食べた。
「雫くん、たい焼き好き?」
「……いや、あんまり」
正直に答えると、雨宮さんは小さく笑った。
ぼくの名前を憶えてくれている。
クラスでは話したこともないのに。
動揺に気づかれないように早口でいただきますと言ってから、たい焼きをひと口かじった。しっぽから食べたのに、あんこの甘さが口いっぱいに広がってくる。
と、雨宮さんがため息をつき、唐突に言った。
「未来ってさ、どこに行っちゃうんだろうね。こんな時代、努力したって全部が無駄になるんじゃないかって。毎晩、考えちゃうんだよね」
雨宮さんは、いつも成績優秀だった。順風しか吹いていないように見えた。
ぼくとは、ちがう。全然ちがうはずなのに。
次の言葉を見つけられないまま、ホームにアナウンスが鳴り響き、電車が勢いよく入ってきた。
「じゃあ、またね」
颯爽と立ち上がり、去っていく彼女の後ろ姿に見とれていると、発射のベルが鳴りひびいた。ぼくはあわてて食べかけのたい焼きを袋に入れると、電車に乗りこんだ。
***
翌日。
ぼくはまた同じ駅の、同じベンチに座っていた。
あの春の日、予備校に通いたいと両親に頼み込んだ熱意は、どこに行ってしまったのだろう。
その代わりに黒々としたものが、たとえば孤独とか、不安とか、恐怖とか、そんなものが頻繁にやってきては、ぼくの心を取り巻いていく。
空に手をかかげてみたけれど、今日も血潮は見えなかった。
少し向こうに高校生が三人、炭酸飲料をふりながら、笑い声をあげている。ぼくも、あんなに白いワイシャツを着ていたのだろうか。それほど前のことでないのに、もう、あまりよく思い出せない。
「まーた、そんな顔してる」
ハッとして振り向くと、雨宮さんが立っていた。
雨宮さんは、暑い、暑いとつぶやきながら、
「こりゃ昨日と同じ顔だ。はい、どうぞ」
と紙袋を手渡した。
受け取った瞬間から、甘い匂いを放っている。
「あ、ありがとう。そだ……お金」
急いで財布を取りだしたけれど、雨宮さんは頭をぶんぶん大きく振った。
「それよりさ、雫くんって、どうしていつも暗い顔してるの?」
「え、暗い?」
「うん、暗い」
「そうでもないよ」
「いや、あるよ」
「いつも、ではないよ」
「いや、いつもだよ」
参ったなと、苦笑が漏れる。
「……在りどころ……がないからかな」
「在りどころ?」
「うん、社会のなかで自分だけ住所がない、みたいな。どこからも必要とされていないというか、見られてもいないというか。ただひっそりと潜伏して、いてもいなくても変わらない。そんな現実を今、はっきりと見せつけられてるような気持ちになるから……かな」
一気に話した後で、無性に恥ずかしくなった。
「ふーん。それで、あんな顔」
ふむふむとうなずく雨宮さんに、ぼくはもう一度苦笑した。
「今日のはさ、白餡なんだって」
雨宮さんはうれしそうな手つきでたい焼きを取り出しほおばった。ぼくもつられてひと口食べた。豆のやさしい風味が、ふわりと鼻を抜けていく。
「おいしい……」
ねえ、と言って、雨宮さんは切れ長の目尻を垂らしている。
「駅前のたい焼き屋さん、知ってる?」
「……いや。家は北口だから、そっちにはあまり行かなくて」
「そっか。わたし毎日、お店の前を通るんだけど、そこのおばあちゃんがね、この紙袋を渡してくれるの。あなたにも持っていってって、いつも二個」
「えっ、なんで?」
驚きのあまり、たい焼きがのどに詰まった。
「雫くんがね、ベンチに座っているところ、ほら、ここ、お店からちょうど見えるんだって」
むせ込むぼくに、雨宮さんはベンチを指しながら笑って言った。言われればたしかに、向かいの商店街の端にある赤い看板が半分だけ、小さくぎりぎり見えた。
「それでね、おばあちゃんが言うには、雫くんがよく、手を振ってくれてるんだって。それがすっごく嬉しくて、元気が出るんだってさ」
ぼくが手を? 手のなかのたい焼きを見た。まだホカホカと温かい。
そんなことがあるのだろうか。
「都会に私たちと同じ年頃のお孫さんがいて、これまで毎年帰ってきてたんだけど、今はなかなかね。もう何年も会えてないみたい。雫くんに雰囲気がよく似てるんだって。だからあなたがベンチに座っているだけで、がんばろうって思うんだって、おばあちゃん、きらきらの目で話してたよ」
そんなことがあるのか、ほんとうに。
血潮の見えない手が、さびしくかかげたぼくの手が、だれかに届いていたなんて。
雨宮さんは隣で微笑んでいるようだったけど、ぼやけてよく見えなかった。
ひとすじの、涼しげな風が頬をかすめる。
もうすぐ夏が終わってしまう。
ぼくはたい焼きを口におしこむと、駅の階段へと走り出していた。
了
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