ざまみろ世界よ聞いてるかい

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ざまみろ世界よ聞いてるかい 2e46c5d0-9f72-4808-9a14-be3cdbecea1f  カンカン、と木を打ちつける高い音が響く。緊張感で張り詰めていたその場の空気が一気に和らいだ。 「お疲れ様です。草間さん、本日オールアップです」  パラパラとまばらな拍手を受けて、役者、草間智也は四方に一礼ずつして感謝を述べた。  智也は今年三十ニになる俳優だ。ただその名は世間に知れ渡っているという事はなく、未だに役者のたまごと言って差し支えない程である。  そんな智也相手でも、出演シーンが全て終わった際にはしっかりとこうやって挨拶をさせてくれる今回の現場は、撮影中も実にいい空気感だった。きっと良い映画になるだろう。智也のシーンはそれほど多くはないが、それでも現場にいる間は気を張るので、なるだけ和やかな雰囲気で撮影が進むに越したことはない。 「草間くんお疲れ様〜」 「杉さん!今回もお世話になりました」   智也に話しかけてきたのは杉さんこと杉本。制作部の人間だ。以前出演した映画で制作部のチーフを行なっており、智也もだいぶ世話になった。  プライベートでも何度か飲みに行っていることもあり、スタッフとキャストという役職違いでありながらも親しくさせてもらっている。今回たまたま現場が被り、撮影の合間に智也のことを気にかけてくれていた。 「草間くんさ、また飯でも行こうよ」 「良いね」  とはいえ杉本は忙しいので、その約束が果たされるのは当分先だろうなと見当をつける。そもそも今回の現場だって、智也はオールアップだが他の役者やスタッフはまだ撮影が残っているのだ。  役者を続けて十数年、商業映画では未だ脇役しか貰えない智也が撮影に最終日まで参加していることは珍しい。スタッフの邪魔にならないよう早めに帰宅しようと思い、杉本とはそれから一言、二言会話をして別れた。  杉本の他に特に深い仲の知り合いもいないので出口にまっすぐ向かっていると、突然後ろから自分を呼ぶ声がした。 「草間さん!」  振り返ると自分に話しかけてくるはずのない男がこちらに向かって駆けて来ているのが見える。  智也の名を口にするその人物に呼ばれる理由などなく、智也はあからさまに動揺してしまった。 「え、えっと……神原さん、どうかされましたか?」  草間違いだろうかなんて本気で思いながらも、間違いなく目の前の男は智也を見ているので無視することは出来ずとりあえず返事をする。  神原千紘(かんばらちひろ)。  先程撮影した映画の主演俳優。智也の八つ下で映画やドラマ、CMなど映像作品に引っ張りだこの売れっ子だ。  そんな男が何故に智也の名前を知っているのだろうか。以前に彼と共演した覚えはない。今回の作品だって、半分エキストラのような智也の名前を彼が知っているはずはないのだ。  監督か誰かに呼ばれているのを代わりに伝えにきてくれたのだろうか。いや、今をときめく人気俳優にそんなことを頼むスタッフなんかいない。頭に浮かんだ憶測をあり得ないと蹴散らしながら目の前の男に向き直る。目が合うと、パッとその二枚目な顔を輝かせた。 「お、覚えててくれたんですか?」 「え」 「草間さん、俺の名前……知っててくれたんだ」 「いや当たり前だろ」 「ひゃあ……」  思わずタメ口で突っ込んでしまう。今日撮った作品の主演というのを差し置いても、近頃テレビや街中で神原千紘の顔を見ない日はない。よっぽど社会から距離を置いてでもいない限り知らないなんてことはないだろう。  頓珍漢なことを言いながら頬を染める売れっ子俳優を呆然と眺める。テレビで見るより背が高い。鼻筋の通った少し垂れ目の、いかにも女受けしそうな顔だ。右目の下の泣きぼくろに、黒子の位置まで完璧なんだなと感嘆する。 「あの、俺も今日は撮影終わって……もし良かったら、俺とこの後ご飯とか……もし草間さんがお暇だったら、なんですけど」 「いや……え、俺ですか?」  目の前に神原千紘がいると言う現実を遠い世界の他人事のように眺めていた智也は、唐突な誘いに動揺する。  千紘の方は残念そうな顔をして、一瞬思案した後言いづらそうに口を開いた。 「あ、あの、さっきの、タメ口……」 「え、あ、すみませんつい」  主演様に対してタメ口を利いてしまったことについて咎められたのかと思い謝ると「違います違います‼︎」と大きく首を振られた。 「俺の方が芸歴短いし年下なんで、タメ口で話してください!」  何故智也の芸歴なんて知っているのだろうか。やはり以前に共演したか。しかし神原千紘と共演した作品なんてものがあれば覚えていないはずがない。なにせ彼はデビュー作から名が広まった役者なのだ。  年上であることはパッと見で分かるだろうし、そこから芸歴についても憶測で言及したんだろうと、自身の中で勝手に納得して「はぁ」とだけ返事をしておいた。 「それであの、今日だめ、ですか」 「いや今日はもう暇だから良いんだけど……」 「じゃ、じゃあ店予約しますね‼︎」  そう言うと千紘はさっと尻ポケットからスマホを取り出して何処かの店の予約を済ませた。  その後すぐさま控室に荷物を取りに行って再度戻ってきた千紘は、深めの帽子にマスク、合わせてメガネという出立で現れた。変装のつもりなのだろうが、これでは逆に目を引いてしまいそうだ。  比べて、別段変装する必要のない智也と並ぶとますます不思議な組み合わせになる。  これで外を歩くのかと不安になったが、スタジオを出ると千紘のマネージャーの車が用意されており、予約していた店まで送迎してくれた。  車内では、助手席の千紘と運転席のマネージャーが仕事の打ち合わせをしていて智也のはそれを後ろで流し聞いていた。  耳に入った分だけでも随分忙しそうなのに、撮影が夕方に終わった日くらい早く帰って寝ようとは思わないのだろうか。  智也は自身が誘われた理由も分からないまま、目的地まで後部座席でただ揺られていた。  千紘のマネージャーの車が、古めかしい出立ちの日本家屋の前で止まる。門から扉までに小さな庭があり、その道を灯籠が仄かに照らしていた。  わざわざ予約をするくらいだからチェーンの居酒屋などではないのだろうなと思っていたが、まさかこんな所に突然連れて来られるとは。 「予約していた中村です」  マスク越しに低めの声で予約していた旨を伝える千紘が、まさかあの神原千紘だなんてこの店員は思いもしないだろう。いや、こんな店だ。有名芸能人が来るのなんて日常茶飯事なのかもしれない。  名前を伝えると、お待ちしておりましたと丁寧にお辞儀されて個室に通される。  すぐにお通しとおしぼりが運ばれてきて、店員はそのままドリンクの注文までサッと済ませていった。  二十歳そこらのくせに、千紘は物怖じする事なく席に座って注文をする。普段からこういう店にばかり来ているのだろう。対して外食するなら大衆居酒屋で済ませてしまう智也は、先程から居心地が悪くてしょうがない。  智也も良い大人なのでこういった店に来るのが初めてと言うわけではないが、初対面の、しかも人気俳優と二人きりという訳の分からない状況に落ち着かなくなる。  チラチラと何か話したそうにする千紘に、本題があるならサッサとしてくれと思いながらも沈黙が続く。こちらから切り出そうにも、接点も何もない上に何故誘われたのかも分からない状況では特に智也から振る話題はなかった。  五分ほど沈黙のままお互いメニューを流し見ていると、先程注文したビールが運ばれてきた。店員に「ご注文は如何致しますか?」と訊かれてようやく千紘が口を開く。 「く、草間さん、何が食べたいですか?」 「あー、えっとだし巻き卵と……唐揚げかな。かんば……そっちは?」  神原くん、と呼ぼうとして既の所で止める。顔を隠しているとはいえ、珍しいその苗字を大っぴらに口にするのはなんだか憚られた。 「俺はサラダと刺身盛りと、たたき胡瓜お願いします」  変わらず低めの声で注文をする千紘に、有名人も大変なんだなと勝手に壁を感じる。  そういえば受付で千紘は自身のことを「中村」と名乗っていた。そちらが本名なのか、はたまた偽名か。気になった智也は、店員が個室を去ったタイミングで千紘に尋ねた。 「神原くんは本名、中村っていうの?」 「そうです。中村千紘です」 「へぇ、千紘は本名なんだ」 「……はい。千紘って、気に入ってるので」  ようやくマスクを外した千紘は、現れた頬を少し赤くして指の腹で首筋を触りながら俯いた。そんなに照れることだろうか。 「あの、良かったら、神原じゃなくて千紘の方で呼んでもらえませんか?」 「あー、その方が外だと都合いいよね」   智也とてそちらで呼ばせて貰える方が助かるので素直に了承すると、千紘は何故だか嬉しそうに顔を綻ばせた。 「……あの、草間さんは、本名って」 「俺?俺はまんまだよ。草間智也」 「え、でも、困りません?」 「困るって何がよ」 「病院で名前呼ばれる時とか、店予約する時とか、名前でチラチラ見られたり声かけられたり……郵便配達のときも家特定されたり……」 「……別に、そういうのないから」  売れっ子俳優の千紘と智也とでは、その知名度は比べるまでもない。なにせ智也は道端で声をかけられたりしたことなんて一度もないのだ。  そんな小さな事で差を感じて嫌な気持ちになるなんて思わなかった。  既に帰りたいと思いながらも、運ばれたばかりのお通しをモソモソと口に運ぶ。こんな状況にも関わらず、ホロリと口の中で溶ける角煮は絶品で、本当に良い店なんだなと改めて認識させられる。  顔を伏せてお通しと向き合う智也に、千紘は緊張した面持ちで口を開いた。 「俺も草間さんのこと、智也さんって呼びたいです」 「え、別に良いけど……」 「あっ、ありがとうございます!それであの、良かったら来週のこの時間も食事ご一緒しませんか?」 「ええ……?」  スピード感を持って距離を詰めてくる千紘に智也はついていけないでいた。別段話が盛り上がっているわけでもないのに二度目の誘いを持ちかけてくる千紘をますます訝しむ。  けれども、何でわざわざ俺を誘うの?なんて聞けるはずもなく、智也は来週の予定をそのまま千紘に伝えた。 「ごめんけど俺、来週はバイトあるから」  そう言うと千紘は不思議そうに首を傾げた。 「バイト?バイトって、なんのバイトしてるんですか」 「何って……別に普通に居酒屋とかだけど」 「とかって、複数?すごいな……役者の仕事しながらバイトなんて」  悪気ないであろう千紘の皮肉とも取れる賞賛に頬がひくつく。  智也の役者の仕事の数なんて千紘と比べたら雀の涙ほどしかない。むしろバイトで生活費を賄っているのだ。千紘のように毎日が撮影や打ち合わせで埋まっている訳ではない。  けれどもそんな事を言うのはなけなしのプライドが邪魔をする為、「どうも」とだけ答えてジョッキを傾けた。 「ていうか今更だけど、何で俺の名前覚えてたの?」 「以前舞台で拝見して、それで智也さんのこと知っていて……」 「へぇ、そうなんだ。舞台なんて久しく出てないのによく覚えてんね。どれだろ」 「はっきり覚えてます!五年くらい前、コメディ舞台で"副"って名前の役です」 「副‼︎やったやった、懐かしい‼︎下北で、ゲイの役な」  五年前。下北沢の小劇場で公演した舞台だ。  智也の演じる副は、高校時代の演劇部の部長の結婚にあたって、引っ越しを手伝うために同じく元部員のショーメイと部長の家に訪れていた。  ショーメイとはあだ名で、舞台の照明を担っているからと当時部長がつけたものだ。ちなみに智也の役は副部長だったから、副。  舞台は副とショーメイが部長の家に訪れるところから始まる。三人で当時の部活の思い出話をしながら梱包作業を手伝っていたが、部長が席を外したタイミングで副がポツリとショーメイに言うのだ。 『俺、むかし部長のことが好きだったんだ』  当然ショーメイは動揺する。「今それ言うの?」、「もしかして今も好きなの」等、矢継ぎ早に質問をするショーメイに副が答える前に部長が戻って話はそこで一旦途切れてしまう。  しかし部長が好きだと言う副のこれまで言動を思い返して、ショーメイは今も副が部長を想っていることに気が付いてしまう。そして顔を青くしたまま梱包作業に戻るのだ。  そんな中部長が奥さんとの惚気話を始め、副は何かを堪えるようにシャツの裾を握りしめながら笑顔でそれに受け答えをするという地獄のような状況になる。  ショーメイは部長に怪しまれないよう、また副を傷つけないよう必死にあの手この手で話を逸らす……というギャグシナリオの舞台だ。  結局ショーメイの苦労も虚しく、耐えきれなくなった副が部長に告白して、副も部長も大泣き。何故かショーメイが誰よりも泣いて、涙の大合唱になっているところに引越し業者が来てドン引きして終わる。 「なに、あれ観てたんだ?小さい劇場だったのに」 「観てました。今の事務所の社長が座長と知り合いだったみたいで、連れて行って頂いて」  千紘は先程までの辿々しい話し方が嘘のように目を輝かせてペラペラと喋る。 「あの脚本ギャグだったし、ショーメイの役の人のコント芝居も良かったから劇場大笑いで……もちろん俺も面白くて笑ってたんですけど。なんかずっと副のこと考えちゃって」 「えー、なんでよ」 「何年も何年も片想いしてた人の結婚式に参列するのって、どんな気持ちなんだろうって」  あの脚本の主役はショーメイだ。歌ったり踊ったり一人漫才をしたりして話をすげ替えようとするショーメイが可笑しくて、本番だけでなく稽古の時も笑いが絶えなかった。  そんなショーメイが主役のコメディ舞台で、副の片想いに想いを馳せながら見る客なんていたのかと智也は驚いていた。 「智也さんが演じてた副、本当に泣いてたから。泣きながら無理矢理笑って。あの時好きだったんだって、告白しながらも部長の為に自分の気持ちを過去のものにしようとしてて、その姿がすごく綺麗で」 「綺麗って……」 「俺、あの時初めて東京で舞台を観て、智也さんを観て、感動したんです。いつかこの人と同じ舞台に立てたら良いと思ってた。こんな風に、役の人生を自分ごとにして生きられる役者になりたいと思った」  千紘は曇りなき瞳で真っ直ぐ智也を見つめる。 「貴方は俺の目標なんです」  自分よりずっと高い場所からそんなことを言われて、智也に芽生えたのは嫌悪感だった。  相槌もそこそこにもう一度ジョッキを煽り、返事を濁す。 「来週がダメなら再来週の木曜とかどうですか?」  智也の態度を全く気にした様子もなく改めて誘ってくる千紘に「えっと……」と言葉が詰まる。 「マネージャーさんに確認した方が良いですか?」  煮え切らない態度を千紘は、仕事のスケジュールが分からず返事に困っているのだと受け取ったようだ。だが智也に確認しなければいけないマネージャーはいない。以前所属していた事務所と盛大に揉めて辞めた為、しばらくは一人で活動していくつもりだった。 「いや、俺フリーでやってるから」 「えっ!マネージャーも事務所も通さず自分で仕事の管理してるんですか⁉︎」  いや、だから仕事量が……とは、脳裏で思うだけでやはり口にはしなかった。  食事を終えて出ると、外はひどい土砂降りだった。  天気予報ではそんなこと言っていなかったのに、急な大降りに皆傘も持たず慌てて往来を駆けている。 「うわ、どうすっかな……これ帰れるかな……」  店の傍軒で雨宿りをしながら途方に暮れる。  スマホで電車の運行を調べるが、案の定まともに動いていないようだ。日も沈んで帰宅ラッシュも重なっていることから、駅内に人が溢れているのは想像に難くない。  傘のない中駅まで走り、濡れた身体で人に揉まれながら、ホームで電車を何十分も待つことを想像して顔を顰める。かといってタクシーで帰れるほどの金銭的余裕もない。  埋まってしまう前にネカフェかビジネスホテルに行くことを思案していると、横から千紘が「あの」と控えめに声をかけてきた。 「いや、別に変なアレじゃないんですけど」 「何だよ」 「……うち、泊まりますか?」 「え、家近いの?」 「六本木なんで、タクシーでも全然問題ない距離です!」  それはありがたい申し出だった。正直ここから帰宅手段や宿泊先を考えるのは面倒くさい。手間暇を考えたら、六本木までの距離をタクシーで割り勘なら安いものだ。 「迷惑じゃないならお願いしたい」 「全然!一人暮らしなんで迷惑とかないです!タクシー呼びますね!」  初めて食事に誘われたときと同様、千紘は素早くスマホを取り出してタクシーアプリを開く。  しかし何でもないことのように言われたが、高級住宅地に一人で住んでいるなんてどんだけ金持ちなんだ。智也はまだ見ぬ超人気俳優の自宅を想像して、腹のあたりにぐるりと不快感を感じた。  二人を乗せたタクシーは、走り出して三、四十分ほどで高層マンションの前に止まった。  千紘は運転手に礼を言ってさっさとマンション内に智也を連れて歩く。料金はどうしたと尋ねたが、予約の際にクレジットで済ましてしまったのだと返された。半額払うと申し出たが、やんわりと断られる。  オートロックを解除してエレベーターに向かう千紘の後ろ姿を見ながら、智也はこいつのこういう所が好かないと思った。  千紘は食事の際にも、支払いをお手洗いに行ったフリをして済ませてしまっていた。まさか女子でもあるまいし、智也はそんな奢られ方をすると思ておらず油断していた。  一回り近くも歳下の後輩に、たかが数千円でも奢られる男の気持ちが分からないのだろうか。実際金銭面では千紘の方に余裕があり、その数千円を支払ってもらったことで自身の懐がペラペラにならずに済んだことが余計惨めだった。  智也の様子に気がつかない千紘は、エレベーターに乗り込むと十二と書いてあるボタンを押す。  個人宅で十二階に案内されることなど今まで無かった智也は、目的の階の廊下に出ると無意味に周りを見渡してしまう。  廊下の扉と扉との間は随分空いており、一部屋分にどれほど多くの空間を使用しているのかが窺える。中にはドア前に三輪車が置いてある宅もあり、家族で住んでいるのだろうと予測させた。  それ程のスペースに千紘は一人で暮らしているのかと、家に入る前から砂を噛むような心持ちになる。  千紘が自宅であろうドアの前で何かを操作すると、ピピっという電子音に続けてガチャリと鍵の開く音がした。生まれてこの方ホテルやスタジオ以外でそんな施錠のされた部屋に入ることがなかった智也は無意味に緊張する。 「どうぞ」 「お邪魔します……」  促されて入った玄関は、草間家のそれの二倍のスペースはあった。  ガラガラの大きな靴箱に、やはりこの家は一人で暮らすような場所ではないだろうと思う。  千紘は「そういうアレじゃないんですけど!風邪ひくので!」とさっきも聞いたようなことを言いながら、その足で智也を浴室に案内した。そういうアレってってどういうアレだと智也が尋ねても、千紘は気まずそうに俯いて答えない。  これまた広い脱衣所に感嘆を通り越して呆れてしまう。こんな広い場所に一人暮らししてどうするというのだ。  それでもセキュリティ面を考えると、千紘ほどの著名人は安全性の高いマンションの上階に住むに越したことないのだろう。結果、一人では持て余すほどの広さがついてくる。 「脱いだ服は洗って乾燥しておくので洗濯機に入れておいてください」  脱衣所に設置されているドラム型の大きな洗濯機の扉を開けながら千紘が言う。こんな洗濯機、コインランドリーでしか見たことない。実家のそれだってもう少し小さかった。 「お前一人暮らしだよな……?」 「そうですけど」 「何でこんないちいち広くてでかいの」 「え?あ、仕事忙しいと洗濯物溜めがちなので、洗濯機は大きいの買ったんです」 「……あっそ」  効率にお金をかけられる千紘が羨ましいと思う。経済的余裕に加えて価値観も違うんだなとなんだか惨めな気持ちになった。  来るんじゃなかったな……なんて、泊めてもらっておいて失礼なことが脳裏によぎってすぐに打ち消す。後輩相手にそんなつまらない嫉妬をする今日の自分に嫌気がさしていた。  きっと雨で濡れて身体が冷えてしまったから余計マイナス思考になってしまっているのだろう。  肌に張り付いているスキニーが鬱陶しかったので、智也は早々に脱いで洗濯機に放り込んだ。 「ちょっ、と、智也さ……」 「え?」 「い、いや……何でも」  慌てて顔を逸らしてそそくさと脱衣所を出る千紘を、智也は怪訝な目で見送る。別に女子相手でもなし、同性同士の着替えなどそれこそ役者業ならよくあることだろうに何を気遣っているのだろうか。  浴室内は足を伸ばしても余るほどの大きさのバスタブに、全身が映る大きな鏡がある。そのどちらも使うことなく、智也はシャワーだけ浴びて身体を温めた。  浴室から出ると、シャツとスウェット、買い置きであろう新品の下着がバスタオルと共に置かれていた。袖や裾の余るそれらを捲ってありがたく拝借する。  一人暮らしには余計なほど長い廊下を歩き、テレビの音声が漏れる部屋に当たりをつけてドアを開けた。中は暖房がほどよく効いている。自身もスウェットに着替えた千紘が、ベッドに腰掛けて肩にかけたタオルで頭を拭いていた。  ドアの開閉音に気がついて振り返った千紘が、智也を見て一瞬身体を跳ねさせる。心なしか頬を赤くして気まずそうに目を逸らした。 「服、大きかったですね」  千紘はソワソワと落ち着かない様子で立ち上がり、意味もなくシーツのシワを整え出す。  服のサイズなんて可愛いもんだ。大きなベッドに大きなテレビ。几帳面そうに見えて、意外と千紘は大で小を兼ねようとするタイプなのかもしれない。 「いや、貸してくれてありがと。客用布団とかある?あるなら場所教えてくれたら自分で敷くけど」 「うち客人とか来なくて……俺ソファー行くんで智也さんベッド使ってください」 「は?だったら一緒にベッド使おうよ。このサイズなら二人で寝れるでしょ」 「え、い、いやそれは」  成人男性が二人並んで寝てもだいぶ余裕のありそうな程大きなベッドだ。わざわざソファーに寝て体調でも崩されたら目覚めが悪い。  一晩並んで寝るくらい別段問題はないだろう。それなのに大袈裟なほど顔を赤くして動揺する千紘に首を傾げる。 「なんか暑い?俺風呂入ったし暖房下げても大丈夫だけど」 「あ、いや、暑くは……」 「でも顔赤いぞ」  まるでのぼせたように、千紘の顔は耳まで熱を帯びている。体調でも悪いのかと手を伸ばすと、「わ!」と叫んで激しく避けられた。 「……流石に傷つくんだけど」 「ち、ちが、触られるのが嫌とかじゃなくて!」  言葉では弁解するが依然こちらを見ない千紘の態度に苛つく。割と懐かれていると思っていたこともあり、先程までの嫉妬や妬みを棚に上げて、智也は少し傷ついていた。 「嫌じゃないならこっち向けよ」 「ちょっ、待っ!」  強引に腕を引いて身体をこちらに向けさせる。  途端驚き慌てた様子で自分の下半身を隠そうとする千紘につられて、自然と視線を下げた。 「……え」  想像していなかった目の前の出来事に智也の目は大きく見開く。  勃っている。間違いなく、千紘の性器はスウェットを押し上げて勃ち上がっていた。  その瞬間今までの千紘の言動、先程の挙動が脳裏にフラッシュバックし、一つの可能性を思い当たる。  まさか、千紘は智也に惚れているのではないか。  あの神原千紘が、自分に。  その可能性に、同性に欲情されている事への嫌悪はなく、むしろまるで自分がすごく良いものにでもなったような気分になり高揚感を覚えた。  どろり、と胸に陰湿な感情が湧く。先程までの強い劣等感を押し流すように醜い自尊心が全身を支配する。  ジリっと詰め寄ると、千紘はデカイ図体を小鹿のように震わせて絞り出すような声を出した。 「あ、あんまり、近づかないでください」 「……でも一緒のベッドで寝るんだろ」 「お、俺はソファーで寝ますって‼︎」 「風邪ひくじゃん」  智也が一歩近づくと、千紘は二歩下がる。それがなんだか可笑しくて、つい揶揄うようにまた一歩足を踏み出してしまう。  流しっぱなしのバラエティ番組から響く大袈裟な笑い声に、まるでこの優位な状況を群衆に見られているように感じて益々気分が高まる。  やがて膝裏がベッドの端に当たり、逃げ場を無くした千紘は近づく智也をただ上気した顔で見つめる他なくなった。  二人の隙間が人一人分もないくらいまで迫って、智也はようやく歩みを止める。  そのまま手を伸ばして、立ち上がった千紘の性器に手を這わせた。布越しとはいえ、それ程抵抗もなく他人の陰茎に手を添えられたことに自分でも驚く。  智也の手が触れた瞬間大袈裟な程身体をびくつかせる千紘に追い討ちをかけるように顔を近づけ、耳元で尋ねた。 「ねぇ、なんで勃ってんの」 「ぁ、う……すみ、すみません」  別に悪いことなんてしていないのに謝る千紘が可笑しくて更に加虐心が湧く。謝るくせに、スルリと撫でると手の中のそれは更に質量を増した。 「俺のこと、抱きたいの?」 「……だ、抱きたいです」  耳まで真っ赤になった千紘が泣きそうな顔をして智也のことを抱きたいと言う。テレビ画面には、目の前の顔とは対称に爽やかな笑顔で飲料水の宣伝をする千紘が映っていた。 「……抱いてみる?」  男に抱かれた経験もないくせに、調子乗りすぎだと自分でも思う。しかし口から出た言葉はそのまま千紘に届き、次の瞬間には押し倒されていた。  千紘は乱暴にリモコンを取ると、智也よりもよっぽど抱き心地の良さそうな女優を画面から消した。  視線をジッと智也にだけ集中させて、熱の籠った目で見つめてくる。整った顔が徐々に近づき、形のいい唇で己のそれを塞がれた。乱暴に押し倒した癖に、千紘はゆっくり、丁寧に智也の唇を啄んだ。  気づけば借りたばかりの衣服は全て剥がされている。  獣のような荒い息遣いに余裕のなさを感じるのに、智也の肌を撫でる千紘の仕草はひどく優しかった。  そのうち胸をしつこく触っていた千紘の手が後腔に伸びる。自分でも触ったことのないようなところを、千紘は何の躊躇もなく撫で回した。  そのうち頭を下げて智也の股の間に顔を埋める。先程までその指で撫でていた後腔に舌を這わせる千紘に、智也はぎょっとして身じろいだ。 「ちょ、き、汚いって」 「汚くないです」  風呂に入ったとはいえ、そんな場所を他人に舐められるのは流石に気が引けて制止する。しかし伸ばした手は邪魔だとでもいうように絡め取られてシーツに押さえつけられた。  何度も執拗に舐められ、智也の空いた口からは自分でも聞いたことのないような高い声が漏れる。室内に水音と自身の喘ぎ声が響き、智也は次第に意識が朧げになっていく。 「智也さん、指、挿れても良いですか?」  突然話しかけられて、一瞬反応が遅れた。 「……え、な、なに」 「俺の指、今舐めてたところに挿れてもいいですか?」  脳がふわふわして理解が追いつかない智也に、千紘はもう一度ゆっくりと尋ねた。 「ゆび……いれるの?」 「挿れてもいいなら」  許可を得るまでしっかりと待てをする千紘は忠犬のようでもあり、鎖を今にも千切ろうとする猛獣のようでもあった。  これから何をされるのか、分かっているようで分かっていない智也は、全部千紘に任せてしまおうと四肢を放り投げ「いいよ」と掠れる声で囁いた。  千紘はその声を聞き取ると、自身の指を咥えて唾液をつけて再び智也の尻に手を下ろす。時間をかけてふやかされたそこは、想像よりもすんなりと千紘の指を受け止めた。  異物感と鈍痛に息が詰まる。ぐっ、と苦しげに上を向く智也の手を、千紘は空いた手で何度もあやすようにさすった。  それから暫くグチグチと音を立てながら広げられ、前後不覚になってきたところで再度「挿れても良いですか」と尋ねられる。  何でも良いから早く終わってくれと心から願うが、それを口に出すほど空気が読めないわけではない。ぎゅっと千紘の背に手を回して頷いた。  はぁ、と息を吐いて千紘が熱を体外に出す。智也を驚かせないようゆっくりと起き上がり、傍に放置されていた枕を智也の腰の下に入れた。 「……挿れますね」  耳元で囁かれてびくりと身体が跳ねる。こいつはいつもこんなに丁寧に女、ないしは男を抱くのかと、場違いに尊敬の念が湧いて出た。 「……ッ、あっ、いった」 「ごめんなさい、なるだけッ、ゆっくりするので……」  我慢の限界だったのだろう。謝りながらも千紘は智也の中に自身の昂りを押し込めていく。  やがて全て入ったのか、千紘は腰を埋めたまま長いため息を吐いた。 「……動かします」  今度は智也の返事を聞かずにゆっくりと下半身を揺さぶりだす。長く慣らされていたおかげか、覚悟していたよりも千紘の性器はスムーズに体内で擦れた。 「ふっ、ん……あッ」 「智也さん、ともやさん、好きです、すっ、すき、好き」  悲鳴に近い智也の呼吸音をかき消すほど、何度も千紘は智也に告白をした。  ああ、やっぱりこいつは俺のことが好きだったんだな、とここにきて改めて認識させられる。  セックスというにはあまりにも暴力的な痛みの混じるその行為に、千紘は冷静さを欠くほど夢中になっているようだった。  必死に身体を貪られながら智也は、まさか自分が男に抱かれる日が来るなんて、とぼんやり他人事のように現状を分析していた。  役者や作家など、表現を仕事にしている人間はこういう悪癖を持ちがちだ。  どんなに恐ろしい目にあっても、心のどこかで「この経験いつか使えるかも」なんてエンターテイメントに昇華しようとする。ちょっと怪しい人に話しかけられて「面白い話聞けるかな……」なんてついていった同業者の体験談はよく耳にする。  しかし今智也が千紘に抱かれているのは、単なる好奇心や職業病だけが理由ではなかった。  もちろん惚れた晴れたなんて可愛いものでもない。  苦痛と圧迫感で歪む視界に神原千紘を捉えて、智也は自身の口角が上がるのを自覚していた。  その日を境に、智也は何度も千紘に抱かれた。  別に智也は千紘に惚れたわけではない。尻の穴を使うセックスに強い快感を覚えることもなければ、男色に目覚めたわけでもない。  それでも、智也は千紘に抱かれる。  なんというか。ざまぁみろと、思うのだ。  お前たちがチヤホヤしているコイツは、お前たちが要らないと捨てた俺を求めて泣きながら抱いている。  俺が手に入れられなかったものを全部持っているコイツが、俺を手に入れられなくて苦しんでいる。  世間への不満や自身の劣等感を、千紘に求められることで昇華している。千紘のことは憎たらしいとすら思っているのに。  比べて千紘は、智也を抱くときいつも「好きです」とうわごとのように繰り返した。智也を抱くたびにボロボロと苦しそうに涙を流すくせに、会えば必ず智也の身体を欲するのだ。  矛盾だらけの歪で交わらない行為を、智也と千紘は何度も繰り返す。  回数を重ねても未だ苦痛を伴うその行為に、智也は自分が日を追うごとに溺れているのを自覚していた。  けれども行為のたび、何故千紘は自分なんかに惚れているのかとも考えた。  もしかしたら千紘は智也を通して"副"を見ているのかもしれない。衝撃を受けた作品のキャラクターは、自分で思っているよりも根深い場所に居座り続ける。  その可能性が、智也は何故だかひどく腹立たしかった。 ♦︎ 「これまだ告知出てないやつなんですけど、もし時間があったら来てもらえませんか?」  ある日いつものように行為を行った後、千紘が差し出したのは舞台の告知チラシだった。真ん中にこちらを睨みつける千紘の顔写真と名前がでかでかと載っている。千紘が主演の舞台なのだろう。 「お前、舞台とか出るんだ」 「俺もともと舞台俳優志望です……先に映像でデビューしたから舞台の仕事あんまり貰えないけど」 「ふぅん、意外……あ」 「え?」 「出演メンバーに前の共演者が居るわ」  広いようで狭い業界だ。知り合いの出ている作品に別の知り合いがいるなんてことはザラにある。それでも智也にとって特別思い入れのあるその名前につい声が出た。 「へぇ、誰ですか?」 「植松さん」 「そうなんだ、奇遇ですね。あれ?でもいつ共演したんです?」 「うーん、もう六年前とかかな。その前から俺は客席で植松さんのこと観てたけど」  そう言うと千紘は「ああ、なる程。だから知らないんだ」と妙に納得して頷いた。 「来てくれます?」 「行くよ。楽屋通してもらえる?植松さんにも挨拶しときたい」 「やった!もちろんです!」  千紘は心底嬉しそうにはしゃいで、関係者席チケットの取り置きをマネージャーにメールした。その姿を見ながらなんとなく申し訳ない気持ちになる。  本当は、観に行きたくなんかないのだ。沢山の観客が押し寄せるであろう大きな劇場で演じる千尋なんて見たら、きっと嫉妬で純粋に舞台なんて楽しめない。  そこに立てない自分の実力不足を棚に上げて妬んでしまう。だからチラシを渡された時、なんだかんだ理由をつけて断ろうと思っていた。  しかし植松の名前を見つけた瞬間に、観に行く以外の選択肢が消え失せた。  智也にとって植松は特別な役者だった。  当時、既に舞台役者として名を馳せていた植松を、二十代前半の智也はいつも客席から見上げていた。なんて迫力のある演技をする人なんだろう。なんて芯の通った声を出す人なんだろう。  そんな風に憧れていた植松と、智也は一度だけ共演する機会があった。その舞台での智也の役はアンサンブルで、助演の植松とは関わる機会はなかった。  それでも智也は共演できたことが心から嬉しかったし、稽古のたびに食い入るように植松を見ていた。  そんな稽古期間を経て公演も無事千秋楽を迎え、打ち上げだと舞台監督が知り合いの居酒屋を貸切で用意してくれ、そこで事件は起きたのだ。  今思い出しても頭が痛くなるのだが、緊張でカパカパ酒を煽った智也は、酔った勢いで植松に絡みに行ってしまった。それはそれはベットリネットリひっついて、植松がどれだけ素晴らしい役者か、また自分がどれほど植松を尊敬しているか永遠に語り続けたのだ。  不幸中の幸いだったのは、植松も相当酔っていたことだ。通常なら失礼にあたるその行為も、その日の植松は好意的に受け取った。  可愛いやつめと、自身に絡みつく智也の頭を撫でながら話を聞いてくれたのだ。その時の動画を後日共演者に送られ、智也は残ってもない架空のアルコールが胃液と共に迫り上がって窒息しそうになった。  しかし酔っ払いのご都合記憶処理の施された智也と違い植松はその日の出来事をばっちり覚えていたようで、後日植松の公式アカウントからダイレクトメールでメッセージが届いた。 『この間はありがとう。舞台を見にきてくれた時には、また君の感想を聞きたいからいつでも楽屋においで』  無体を働いた智也がその行為を気に病まないように社交辞令でそんなメッセージを送ってくれたのかもしれない。けれども智也は植松のそんな言葉を社交辞令のまま受け取って済ませはしなかった。  次の舞台の公演の後、植松のダイレクトメッセージに本当に伺ってもいいか確認をとると、「今来てるならマネージャー向かわせるからおいで」と返信が来たのだ。  それからだ。植松は智也が舞台を観に行くと、必ず楽屋へ通して感想を聞いてくれるようになった。  その関係は、あの居酒屋での事件から六年経った今でも続いている。  そうやって植松と話すたびに折れかけていた心に火がつき、「もうちょっと頑張ろう」を繰り返してしまうのだ。  智也が役者を辞められない理由の一つが植松だった。  たまにふと考える。  千紘が智也を慕う気持ちは、こんな風に純粋なものなのだろうか。智也が植松に抱いている感情と確実に違うのは、色恋が混ざっていることだ。けれど始まりが一役者に対する敬慕であったことは確かだ。  そう思うと、憂さ晴らしのためだけに千紘に抱かれている自身のことがひどく醜く感じる。それと相対するように湧く優越感で智也は自身を慰めずにはいられなかった。  千紘のことを「神原千紘」としてしか見ていない事実に罪悪感を抱くのに、ただの「千紘」として向き合うことがどうしてもできない。  智也は千紘に会う度に自分のことを少しずつ嫌いになっていた。    舞台の公演当日。開演三十分前だと言うのに、劇場前には人だかりが出来ていた。恐らく出演者のグッズを買う為に早めに来ているのだろう。  客層は若い女の子が多いように感じた。千紘が主演な影響だろう。パンフレットやブロマイドをきゃあきゃあと見せ合いながらはしゃぐ彼女たちに、「神原千紘は男のケツ追っかけて泣くような男なんですよ」とバラしてしまいたくなる。  あまりにも性格が悪い。余裕がない。  なにも千紘相手だけではないのだ。共演者が大きな舞台や映画に出演するとなったとき、いつのまにか賞賛よりも羨望を抱くようになった。  そうなってしまってはもう純粋に作品を楽しめない。楽しめないから観ない。観なければ学ぶことができない。負のループだ。  芸能人に限らず技術を職業にする人間は、くだらない嫉妬心なんかに囚われず成功している同業者に習う柔軟さが必要だ。そう教えてくれたのは植松だった。  自身も植松のような役者になりたい。一人でくだ巻いて立ち止まっているような人間でいたくない。人々に求められて、仕事を貰えるようになりたい。  久々の観劇だ。気持ちを切り替えて純粋に楽しもうと、智也はパンフレットに載っている植松をジッと見つめた。  結論から言うと、そんな決意をする必要は全く無かった。公演が終わると、智也は席から動けないでいた。  脚本や演出は良かったが、それだけではない。  悔しいけれど、役者の熱量や演技力に圧倒された。  楽しもうと意識しなくたって、いつの間にか登場人物たちと一体になって話にのめり込んでいた。  嫉妬心など抱かないくらい純粋に良い舞台だと思った。  明らかに千紘以外の役者が目的で来たであろう人々も、「神原千紘って結構良いんだな」なんて言い合っている。  今まで千紘の演技をまともに見たこともないのに、何を張り合っていたのかと、自分が恥ずかしくなる。真っ直ぐで、堂々としていて、まさに主役の名に恥じない出立ちだった。決して顔や運だけで今の地位を手に入れたわけではないのだと思い知らされて、ため息をつく。  同時に、悔しいとすら思えなかった自分にさらに嫌気がさした。力の入らない手でスマホを起動し、千紘にメッセージを送る。 『舞台良かったよ。お疲れ様』  楽屋に通してもらう約束ではあるが、先程公演が終わったばかりでしばらくは待ちだろうと思い、備え付けの自販機でコーヒーを買う。しかしすぐにポコンと間抜けな通知音が手元で響いた。 『マネージャーが関係者入り口のとこにいるので合流して来てください!』  想像を裏切り、むしろ急かすような前置きの無い文面に思わず苦笑する。  本当は今あまり千紘に会いたくはないのだ。けれども智也が来ることをこんなにも楽しみにしている千紘を流石に無視はできないし、何より植松に感想を伝えたい。  気乗りしない足を引きずって、智也は千紘のマネージャーの待つ方へ向かった。 「智也さん!」  楽屋前には、まだ衣装も着替えてない千紘がタオルで汗を拭いながら立っていた。智也の姿を見つけると駆け足で近寄ってくる。あんなに激しく動く舞台の後によくそんな体力があるな、と二十代の体力に舌を巻いた。 「お疲れ様。これ差し入れ。差し入れボックスのが良かった?」 「いえ‼︎直接受け取りたいです‼︎」  ありがとうございますと両手で大事そうに紙袋を抱える千紘に、そんな大したものでもないのにと気後れする。  千紘は智也の差し出すものを宝物のように大事に扱う傾向がある。それが例えペットボトルの水や飲食店の割り箸であっても、嬉しそうに両手で受け取るのだ。  その姿は、先程客席から見上げていた凛々しい姿とはガラリと雰囲気の変わったものだった。役者としての「神原千紘」をしっかりと観たのが初めてだったからかもしれない。智也の前にいる千紘は、世間の見ている千紘とは結構ギャップが激しいのだなと思った。  ニコニコと智也に舞台の感想を聞きたがる千紘に曖昧に答えていると、千紘の背後で楽屋の扉が開く。  中から出てきた人物を見て、智也は自分の気分が一気に高揚するのを感じた。その昂りのままスルリと千紘の脇を抜けて楽屋の方へ駆け寄る。 「植松さん!」 「お、草間くん。久しぶりだな、元気にしてた?」 「はい!この舞台植松さんも出るって聞いて、俺楽しみで……」 「今回も観に来てくれたの」 「はい‼︎」  もし智也に尻尾が生えていたなら、ブンブンと音を立てて千切れんばかりに振っていただろう。 「あの、これ差し入れです!植松さんの演技久々に間近で観れて感動しました‼︎今回はいつもと違ってクールめな役柄だったけど、植松さんは目力があるので大きな舞台でセリフが無いシーンでも感情が伝わってきました!スタイルもいいから存在感があって、特に登場シーンなんかは……」 「智也さん」  いつものように感想を思いのまま述べていると、こちらに近寄ってきていた千紘に低い声で遮られた。 「植松さんも中日(なかび)でお疲れなので、そろそろ控えたほうがいいんじゃないですか?」 「良いんだよ。草間くんはいつもこうやって感想くれるんだ。というか草間くんと神原くん知り合いだったんだ?」 「俺が、智也さんのこと招待したんで」 「へぇ、そんなに仲良いんだ」  下の名前で智也のことを呼ぶ千紘に、植松は意外そうに瞬きをした。 「それならいつか神原くんと草間くんと、三人で共演できたら良いね」  そう言われて、智也はふわりと気分が舞い上がる。パアッと気分をそのまま表情に出したまま「したいです!」と何度も頷いた。  千紘の方は相変わらず表情をそれほど動かさず必要最低限の相槌をしている。普段の智也に対する態度との違いを不思議に思うが、仕事中とプライベートで分けるタイプなのだと思い勝手に納得した。 「植松さんと智也さんって、そんなに仲良かったんですね。共演したのは一回って伺ってましたけど」 「あー、そうそう。草間くんさ、打ち上げの時に酔って俺にべったりくっついて」 「や、やめてくださいよ植松さん!本当に反省してるんですから」 「まだ動画あるよ」 「ぎゃー!出さないで!」  元々後輩を揶揄うのが好きらしい植松は、慌てる智也を翻弄するようにスマホを智也の手の届かない高さに持ち上げる。踵を上げてうんと手を伸ばすが、そのままバランスを崩して植松に抱きついてしまった。 「わ、と、すみません」 「これ当時の再現映像ね」 「植松さん!」  ガッシリ智也の腰を掴んで抱き止める植松に、智也は自分の頬が熱くなるのを自覚する。  植松はスキンシップの多い芝居をする役者だ。舞台上でも隙あらば共演者の肩を組んだり、時には背中に飛び乗ったりする。そういう馴れ馴れしいくらいの接触が、役同士の親密さをより客席にも感じさせるのだ。  その癖は私生活にも影響を及ぼしているようで、たまにびっくりするほど距離感を詰められ智也はよく動揺させられた。  憧れの先輩との交流を嬉しいと思う気持ちはもちろんあるが、緊張でいつも真っ赤になってしまう。その姿がまた植松には可笑しいらしかった。 「ごめんごめん、揶揄いすぎた」 「もー……それ消してくださいよ」 「それは無理」  謝る癖に、口角は上げたままスマホをサッと胸に仕舞う植松に、智也はがっくりと肩を下げた。そのうちまたあの動画で揶揄われるのだろう。 「じゃあまたね、差し入れありがとう」 「はい!お疲れ様です!」  スタッフに小道具を渡しに出ただけだったようで、用を済ますと植松はまた楽屋に戻っていった。  隣の千紘は先程から黙ったままだ。怪訝に思いながらも向き直って話しかける。 「俺もう帰るけど、お前は?今日の公演終わったんだよな。ミーティングとかないなら一緒に帰る?」 「……特に何もないので一緒に帰ります。智也さん家来てください」 「え、でもお前、明日もまだ公演あんだろ」 「来てください」 「……いや別に、良いけど」  近頃稽古で会うことがなかったから溜まっているのだろうか。完全に性欲処理係になっているのを自覚しつつも、断る理由も特にないので了承する。  着替えるから待っていてくれと言われたのでロビーのベンチに腰をかける。公演直後と別人のように険しい表情で楽屋に戻っていく千紘を、智也はただ首をかしげて見送った。  待っている間、一足先に帰宅準備が整ったらしい植松に再度声をかけられ二人で話していると、不機嫌なのを隠しもしない千紘にぐいと腕を引っ張られた。  大先輩である植松の前でその顔は失礼だろうと小声で嗜めると、流石に反省したのか広告用の貼り付けた笑顔で「明日もよろしくお願いします」と挨拶をした。  しかしそんな愛想も、劇場を出てすぐに捨てる。帰り道で黙りを決め込んでスタスタと前を歩くその背中に、疲れているなら何故自宅に呼ぶのだと疑問が湧いた。 「智也さんは俺のこと観に来てくれたんじゃないんですか」  千紘の寝室に入り開口一番にそう尋ねられる。先ほどからの態度に加えて唐突におかしなことを訊かれ、智也は苛立ちを覚えた。 「は?そりゃお前に招待された舞台なんだからお前のこと観てたよ」  明らかに声のトーンが低い智也に千紘は少したじろいで、それでも自身の上着の裾を握りしめて恨めしそうに智也を睨んだ。 「違う……だってさっき植松さんの演技いっぱい褒めてた」 「そりゃあ、あの人は俺の憧れだもん」 「ずるい」 「ずるいって……」 「ベタベタしてたし」 「いや植松さんは誰にでもあんな感じじゃん。お前もされたことあんだろ」 「あ、あるけど……」  なんてことない。つまりは妬いたらしい。  確かに考えてみれば、智也とて自分の舞台に植松を招待したのにも関わらず植松が他の出演者ばかり褒めていたら気分は良くないだろう。自分ごとに置き換えて、先程の楽屋前での対応は千紘に失礼だったかもしれないと思い直す。  しかし智也にとって植松は特別なのだ。どうすれば理解してもらえるのか思案して、一番分かりやすい例えを提示した。 「なんか自分で言うのもアレだけどさ、俺にとって植松さんは、お前にとっての俺みたいなもんなんだよ。俺はあの人追っかけて役者やってんだから」  どうだこれで納得するだろうと千紘を伺えば、先ほどよりも顔を歪めてわなわなと震えていた。 「な、何それ、そんなに、そんなに植松さんのこと好きなんですか?」 「そんなにって……」 「俺にとっての智也さんって、何それ、めちゃくちゃ好きじゃん、そんなん、やだ」  「いや違、それは言葉のあやで」 「やだ……やだ……」 「お前さぁ……いい大人が泣くなって、こんなことで」 「こんなことじゃないです!」  千紘は声を張ると、ズルズルと鼻を啜りながら智也の胸元に額を押し付けた。 「やだ、植松さんに智也さん、取られたくない」 「いや取られない……てか要らないって言われるよ」 「植松さんが要るって言ったらあげるんですか⁉︎」 「何でそうなるんだよ‼︎」  訳がわからないことを言いながら涙を際限なく溢して、千紘は智也のシャツを濡らす。  抵抗せず受け止めていると急に腕を引かれ、智也はバランスを崩し千紘のベッドへ背中から倒れ込んだ。  覆い被さる体制になると、千紘は顔を上げて涙が滴り濡れた唇で智也の口を塞ぐ。ひどく熱い口内からぬるりと出てきた舌に己のそれを絡め取られる。舌で涙の塩分を感じて、つい眉間に皺が寄った。  押しのけようと手を千紘の肩に置くが、千紘はすぐにその手首を掴み智也の顔の横に押し付ける。ついでとばかりにスルリと指の腹で手のひらを撫でられて、反射的にびくりと身が跳ねた。  何度も重ねた行為の所為で、智也の感じる部分は全て千紘に知られている。千紘はぐずぐずと子供のように泣いているくせに、的確に智也の性感帯を指や唇で愛撫した。  そうされると智也はいつも逆らえなくなってしまう。  くらくらと曖昧になっていく理性を引き止めるのが面倒で、目を瞑ると抵抗の力を抜いた。  なし崩しのまま受け入れてしまった性行為の後、疲労で指一本もまともに動かせずベッドに沈む。  舞台でも散々動いたくせに、当然のように立ち上がって冷蔵庫へ水を取りに行く千紘の若さに呆気に取られた。  千紘は若い。二十歳という若さでもって既に芸能界では成功者だ。智也が十年以上役者を続けて、それでも一度も立つことの出来なかった舞台に、千紘は主演で立っている。  運にも、容姿にも、仕事にも恵まれた千紘への妬ましさと自分の不甲斐なさが急に胸にどろりと溢れた。  それは急だ。いつも急にくる。普段見て見ぬ振りをしている不安や憂鬱は、小さなきっかけで智也を支配する。 「死のうかな」  散々喘いで掠れた声でそんなことを呟く。こちらに戻ってきていた千紘はその言葉をしっかりと聞きとったようで、ペットボトルのキャップを開けながら尋ね返してきた。 「死にたいんですか?」 「死にたいね」 「じゃあ俺も死のうかな」  何でもないことのように水を口に含むと、そのまま唇を智也のそこに寄せて受け渡してくる。一度口内で温められた生ぬるい水がゆっくりと喉を通った。 「……俺が欲しいもん全部持ってるくせに、何で簡単に全部捨てんだよ」 「俺が一番欲しいのは貴方なので」  千紘はもう一度ペットボトルを傾けると、今度はその水を自分の体内に流し込んだ。  先程号泣しながら智也を抱いたことは忘れてしまったように、スッキリとした顔をしている。智也の体内に、精子と共に鬱細胞まで吐き出していったのだろう。  よしよしと智也の頭を撫でる千紘を、身体の動かない智也はせめてもの抵抗で睨んだ。 「わかんないよ、お前、何でそんなに俺にこだわるの」 「好きなので」 「どこが好きなの」 「好きなところはいっぱいあります。上げていけばキリがないくらい」 「……試しに上げてみてよ」 「そうですね。我が儘を言うのが下手くそで、けど素直にもなれなくてくだ巻いてるとこ、可愛い。こうやって悩んで落ち込んじゃうのも、それだけ真剣なんだなって思います。  物事を同時に済ませようとしないところも好きです。両手が塞がってても絶対に扉を足で開けたりしない。必ず持っているものをどこかに置いてから開けるんです。  それからスタッフさんの立場になって物事を考えられるところ。他の役者が気にしないところも、すぐに気がついて手伝ったり邪魔にならないように移動したりする。口調は荒いけど、根は細やかなんだ。あと、」 「ごめんもう良い」 「お酒を飲んだ時に武勇伝を語ったり、人の悪口言ったりしないし」 「良いって」 「まだあります。訊いたなら責任を持って最後まで聞いてください」 「何の責任だよ……」  つらつらと口達者に好きなところを述べていく千紘に呆れる。自分でも意識していなかったそれらを指摘されて、本当によく見ているんだなと居心地が悪くなった。 「最初は、本当にただ憧れてたんです。俺に衝撃を与えた役者さんだったから。だから誘われた時抱いたし、尊敬以上の好意をすぐに持った」  千紘はもう一口水を飲んでからペットボトルを智也の枕元に置く。 「でも智也さんと何度も会うにつれて……智也さんと接する時間が長くなればなる程、尊敬なんて言葉じゃ収まらないくらい気持ちが膨れ上がっていったんです。  役者としての草間智也じゃなくて、智也さんのことを好きだと思ったし可愛いと思った。  一度可愛いって思っちゃったら、智也さんの全部が可愛く見えてきて、気づいたらどうしようもないくらい好きになってた」  目を伏せて照れ臭そうに言う千紘を、智也はただ黙って見上げていた。千紘はそのうち返事をしない智也に恥ずかしさが限界を迎えたのか、「お風呂入ってきます!」と立ち上がった。  そうして風呂場に向かって何歩か進んでいたのに、ピタリと立ち止まると振り返って元の場所まで戻ってくる。智也の顔のそばに手を置き、身を屈めてこめかみに唇を落とした。 「好きです、智也さん」  数センチ程の隙間を空けて耳元でそっと囁くと、千紘は今度こそ部屋を出た。  腹の中がぐるぐるする。千紘にうつされた鬱細胞が智也の体内で暴れ回る。  中に出したらダメだと、何度言っても聞かない。こんなに自由に我を通しで生きている男が、舞台や映像の世界では才能を発揮し、世間に評価されている。  千紘が自分を好きだと言うたびに胸に湧き上がる。罪悪感。優越感。喪失感。劣等感。  自分で処理しきれないぐちゃぐちゃな感情をぶつける当てなんてどこにもなくて、智也は千紘の匂いのするシーツを強く抱きしめて赤子のように丸まった。 ♦︎  秋が深まり肌寒くなってきた頃、今日も智也は千紘の自宅に呼び出されている。  千紘に仕事の電話が入って待ちぼうけを食らう間、智也はスマホにブックマークしているサイトを開いた。  それはウェブで一般人でも見れるオーディションサイトで、智也はいつもそこをチェックしては自分に合う役柄にプロフィールを送っている。  もう手癖になっているその作業を行なっていると、その中に知っている作品のタイトルがあり智也は目を引かれた。親指でタップして詳細を表示する。それは小説の映画化にあたっての、メインキャスト募集ページだった。  智也はその小説を知っている。高校の頃たまたま図書室で手に取り、全十巻あるそれを一気読みするほど熱中した作品だった。  胸が高鳴る。この脚本のキャラクターをスクリーンで演じる自分を想像する。  演りたいと、思った。この作品で自分が感じた感動を、映画を通して誰かに伝えたいと。  募集キャストの欄を確認すると、智也の年齢に合うキャラクターがいた。そのキャラクターは、小学生の主人公たちをサポートする三十代の叔父だ。かつては歳上だったそのキャラクターと今の自分が同年代になっている事に驚く。  昔は主人公にばかり共感していたが、今作品を読み返せばまた違う視点の感想が生まれそうだ。  さっそく応募ページに要項を記入していると、通話の終わって戻ってきた千紘に「ご機嫌ですね」と話しかけられた。 「昔好きだった作品のオーディションを見つけたんだ」 「へぇ!応募するんですか?」 「うん、受かるかわかんないけど」 「受かりますよ。ていうか智也さん使わないとかあり得ない」  何故そんなに智也に対する評価が高いのか未だに疑問だが、そう言われて悪い気はしない。  やる気が湧くと腹が空くようで、普段はそれほど鳴ることのない腹がぐぅ、と栄養を欲する音を出す。 「何か食べますか?」  クスリと笑って智也の腹を撫でる千紘の手を強めにはたき落とした。 「い、痛い……」 「食べる。ハンバーガーかな」 「あはは、いいですね。配達頼みましょうか」 「近くにバーガーショップあんだろ」 「そこは……この間店員の子にファンですって声かけられちゃったので、頻繁に行くと近所に住んでるってバレそうで」 「あっそ……」  智也もこの作品に出演したら、ファンの子が……なんて危惧をするようになるのだろうか。久々にそんな浮かれた妄想をした。 ♦︎  件のオーディションから一週間後。製作側から届いたメールを急く気持ちで開封し、智也はその場でただ呆然と立ち尽くしていた。 『草間様 お世話になっております。 先日はオーディションにお越しいただきましてありがとうございました。 さて、選考を進めさせて頂きました。 最後まで悩みに悩みました結果、残念ながら苦渋の結論と相成りました。 限られた採用枠に対して多数のご応募を頂いており、慎重に選考を進め、判断させていただいた結果でございます。 今回は、たまたま役柄と合いませんでしたが、弊社といたしましては、今後とも積極的に作品を撮っていく予定でございます。 今後、お互いの機会に恵まれました際には、また是非ともご出演をお願い出来ればと考えております。 また、次回作等でご検討いただけますと幸いです。 よろしくお願いいたします。』  途中から目ではなぞりつつも文章は頭に入って来なかった。身体中が脱力感に包まれる。  コピーペーストされたであろう"最後まで悩みました"の薄っぺらい慰めが余計惨めな気持ちを増長させる。  結果なんて分かっていた。だって智也はオーディションであまりにも緊張して実力を発揮できなかったのだ。いや、会場で出したものこそが実力の全てだと言うのであれば、持ち得る全てを出した結果がこれなのだろう。  一次審査の書類は通ったのだ。だから容姿がイメージと合わないという訳ではなかった。単純に実力不足か、智也よりももって適任の役者がいた。それだけだ。  いつからだろう。こうやってオーディションに落ちるたびに、悔しいや悲しいなんて感情を抱かなくなっていったのは。  オーディションに落ちたことより、あんなにも演りたい役だったのに、自身がその役を掴み取る事を信じていなかったことの方がショックだった。  年々薄れていく熱量を自身で感じながらも、バイトで食いつないでズルズルと役者を続けている。放任主義な親は何も言わない為、誰にも責められることなく中途半端に夢を追う日々をただ過ごしている。  好きなことだけして生きていけるのはほんの一握りの人間だけだ。そんなのとうの昔に分かっていたはずなのに、自分がその一握りになれるだなんて幻想をずっと信じていた。  本当に才能があって本当に世間に求められる人間というのは、神原千紘みたいな奴を指すのだろう。  限界を感じていた。  身近に成功者がいるせいで、そうでない自分の未熟さが浮き彫りになっていく。やる気だけでしがみついていた夢に、もうそれ程気力を注げなくなっていた。  画面をぼーと眺めていた智也の意識を、スマホの通知音が現実に戻した。  都合が合えば明後日食事に行こうと、杉本からのメッセージだ。間抜けな顔の付いた杉の木のスタンプが『調子どうだい?』とこちらを覗いている。  誘いを受けるメッセージと共に『最悪です』と地面に寝そべる雑草のキャラクターを送り返すと、先程の杉の木がわざとらしく泣いているスタンプが数秒も経たず返ってきた。 ♦︎  杉本と会うのは、千紘と初めて食事に行ったあの撮影の日以来だ。フリーで制作の仕事を受けている杉本は、自分でいつどの仕事を受けるか決めることができる。  その為タフな杉本は、撮影が終わり次第休みなく次の撮影へ参加する日々を送っている。それで今になってようやく時間が出来たのだそうだ。  中央線沿いだと帰宅が楽だと言われ、新宿の西口にある大衆居酒屋で呑むことにした。  予約は杉本がしてくれた為、智也は送られてきた住所にアプリのマップを開きながら向かう。その店は少し路地に入った場所にあり、見つけづらいだろうに智也が店に着いたとき店内はほぼ満席だった。  先に着いていた杉本に手を振られ、同じく振り返しながら近づいて向かいに座る。  もうそろそろ到着すると言う旨を連絡をしていた為、先に注文してくれていたのだろう。智也が席に着くとタイミングよくジョッキが二つテーブルに置かれた。  杉本は時間や人の動きを予測して先回りして動くのが上手い。以前それを指摘したとき、「長年制作部やってると自然にね〜」と苦笑いしていた。  時間のかかるであろう焼き鳥まで続けてテーブルに並べられ、変わってないなと感心してしまった。職業病というのも嘘では無いのだろうが、この効率の徹底ぶりは杉本の根の性格なんだろうと思う。 「ねぇ杉さん、あの映画いつ出来上がんの?」  乾杯の後メニュー表を眺めながら何の気無しに尋ねる。智也自身それほど多く映っているわけではないので別段聞いておきたい事でもないが、間を埋める為の雑談だ。  杉本も智也が真剣に訊いているわけではないことを理解しているようで、「どうだろ〜なぁ〜」と曖昧な返事を適当に返してくる。 「完成は来年の春目安って言ってたけど、公開は夏だからなぁ……まぁどのみち先だよ……お、噂の作品の主演様じゃん」  顔を上げて向かいを見ると、杉本の視線は智也の後ろに向いていた。  振り返ると壁にかかった大きめのテレビがあり、その画面には神原千紘が映っている。スタイルの良い女性にマイクを向けられて映画の宣伝をする神原千紘は、スッと背筋を伸ばして堂々と作品の魅力を語っていた。  純粋に、かっこいいと思った。  きっともう今の智也は、こんな風にテレビに映ることなんてできない。そんな機会があったところで、経験も自信もない智也はテンパって上手く話せないだろう。  同じ役者という職業でありながら、智也はいま千紘のことを"画面の向こうの芸能人"として見てしまっていることを自覚した。 「役者、辞めようかな」  自然にそんな言葉が口から出た。  今まで、ぼんやりと思考の奥にずっとあった選択肢。けれども一度も言葉にしたことの無かった選択肢。 「辞めて何すんのさ」  独り言のように呟いた智也の言葉を、杉本は雑音の中でも聞き逃さなかった。串と離別させられた焼き鳥を箸で掴んだまま智也に尋ねる。  しかし、特に考えてしたわけでもないその発言の先を求められてもすぐには答えられない。ジッとこちらを見つめる杉本から視線を逸らして顎を引いた。 「何だろ、別にフリーターでも生きていけるけど……定職ついた方が良いんかな」 「やりたいことがある訳じゃないんだ?」  問われたことは図星だったが、智也は素直に頷くことが出来なかった。  夢にだけ縋って生きてきた智也が夢や目標を持たないことは、なんとなく罪のような気がする。  安定した生活を捨てた智也にはそれしか無かったのに、自分はそれすらも捨ててしまうのかと。  けれども、成人してからずっと役者以外の職業に就くこと考えたことがなかった智也には、他にやりたい仕事なんて思い浮かばなかい。  ジョッキを口元に当てて「ない、かな」とモゴモゴ呟くと、杉本が即座に「じゃあさ」と身を乗り出してきた。 「制作部来れば?」 「え」 「次撮影する作品の制作、人足りてなくてさ、草間くんくらい気の利く人間が一人欲しいんだよなぁ」  制作部。役者の立場からは、助監督と一二を争うほど忙しなく動いているイメージの強い部署だ。  あまりにも様々な仕事を請け負っている為、智也の中では「何でも屋」という認識で、制作部が具体的にどういう仕事してるのかぼんやりとしか知らない。  素直にそのことを伝えると杉本は「まぁ何でも屋で合ってるよ」と目を細めながら例を挙げてくれた。 「ロケ地探したり、そのロケ地での撮影許可取ったり、スタッフの動き整理とか、見物人の誘導もするね。そんで宿泊先とかロケ弁の手配でしょ……あとお金の管理とかも制作部だな。要は雑務全般」 「杉さんそんな色々やってたの?」 「違う違う、制作部の中でもグループ分けして分担してんのよ。まぁだから人手は欲しいのね。バイトくらいのつもりでも良いから、もし良ければ一回来てよ」  役者からスタッフに移行する者はいると聞く。けれども智也は自分がその立場になるなんて考えてみたこともなかった。  すぐに色良い返事を返せなくて、杉本に一言断ってからトイレに逃げる。  思考を整理したくて便座に座るが、扉にベタベタと貼ってあるインディーズバンドのライブ告知ポスターが目に入ってますます胸が苦しくなった。  そのライブが行われたのは今から三年前のようだ。今もこのバンドは活動しているのだろうか。  上着のポケットに入ったスマホで簡単に調べられるのに、智也はそうすることなく個室を出る。  席に戻ると、杉本は間髪入れずに先程の話を持ち出した。 「言っとくけど俺別に草間くんが役者続けるって言っても応援するからね」 「……うん」 「でもスタッフはスタッフで楽しいよ」 「……」  杉本のこういう直球で、話を濁さないところを智也は好ましく思っていた。席を立って逃げた時点で普通であればもうその話題を振ってくることはないだろう。  けれども杉本は言いたいことは言いたい分だけはっきり言う。その言葉が智也に必要だと思っているから、面倒くさがらず伝えてくれるのだ。だから智也は杉本の助言をいつも邪険に出来ない。 「別に答えは急かさないからさ、やりたいと思ったならいつでも声かけておいで。基本どの現場も制作足りてないから」  少し間を置いて智也が頷くと、杉本はこの話は終わったとばかりに店員に声をかけ、追加のビールを二人分頼んだ。 ♦︎  翌日いつものように千紘の自宅に呼ばれた。  促されるまでもなく智也は千紘のベッドな我が物顔で腰掛ける。この家に来る時の定位置はここだ。当然の様に千紘も隣に座った。 「昨日の撮影、久々に高校生の役だったんですけど」  千紘はそのまま智也に触れることなく雑談をする。さっさと始めれば良いのに、千紘はいつも行為の前に智也と近況を話したがった。  智也はセックスが終わるとすぐに帰る。だから千紘はセックスの前になるだけ智也と話そうとしてくるのだ。セフレ相手にそんなの付き合う必要ないと思いつつも、智也はいつも千紘が満足するまで話を聞いてやっていた。  千紘の話は、正直面白い。智也と違って物事をプラスに受け取るきらいのある千紘は、智也であれば怒る様なことも笑い話にして話すのだ。そういう千紘の新たな視点や心の余裕に、智也は感心をおぼえていた。 「智也さんはまだ高校生の役いけそうですよね」 「アホか。肌のきめ細かさが違うわ」 「女子みたいなこと言う!」  何がそんなに嬉しいのか千紘は智也と話している時よく笑う。バラエティ番組などで見る育ちの良さそうな笑い方ではなく、口を開けて歯を見せてケラケラと笑うのだ。智也はそっちの方が好感がもてるだろうと思うのに、千紘曰く「神原千紘」のイメージには合わないのだそうだ。  千紘のそういう意識の高いところは、癪だが尊敬していた。それと同時に、そういう都合のいい"外側"しか求めない世間の人々への気持ちが冷めていくのも感じた。  千紘のことを知れば知るほど、画面越しに見ていた神原千紘が「人々が求める理想の神原千紘」でしかないことに気がついていく。  わがままで、貪欲で、ひたむきで努力家、憎たらしいほどまっすぐな千紘。それでいて観客の求める「神原千紘」のイメージを徹底して守る千紘。  千紘をライバル視して劣等感を感じ張り合っていた智也は、千紘自身に目を向けられていなかった。それどころか「神原千紘」に求められることに優越感すら感じていたのだ。  だから自分を棚に上げて世間に愛想を尽かした様なことを言える身分ではない。  しかし今自分がどん底に落ちて改めて、隣で仕事の話をイキイキとする千紘のことを眩しいくらいにかっこいいと思った。敵わないな、と素直にそう思う。  揺らいでいた決断が、千紘を目の前にして一気に固まっていくのを感じる。 「そういえばさ」 「はい」 「例のオーディション落ちたわ」 「……それは、悔しいですね」  千紘は智也よりよっぽど悔しそうに顔を歪めた。絶対に智也さんをキャスティングした方がいい作品になるのに、と何の根拠のないことを、それが当たり前のように口にする。  その自信はどこから来るんだと苦笑した。出会った頃であれば嫌味かと憤慨していただろうが、今は千紘が本気でそう思っているだろうことが分かるからむず痒い。  けれどもやはり智也は、千紘の言う悔しいの感覚が例の如くピンと来ない。自分の中で「悔しい」という言葉と心の中にある感情を噛み砕いて照らし合わせてみる。そして自身がもうそれ程"役者"という仕事自体に執着していないんだなと思った。  黙って考え込む智也に、千紘は気を遣っているのか何も話しかけてこない。別にもう落ち込んでいないし、千紘には他に聞いてほしいことがあった。  けれども何と切り出せばいいのか分からず、結果口から出たのは会話の繋がっていない賞賛の言葉だった。 「お前さ、すげぇよ」 「え、何がですか」  沈黙の後の脈絡のない褒め言葉に千紘は困惑を見せる。 「俺、十年も役者やってんのに未だにオーディションに緊張すんだ」 「俺だってしますよ」  智也の言っている意味がわからないという態度を隠すでもなく、千紘は怪訝そうな顔で智也を見る。最初に比べて遠慮がなくなってきたな、なんて関係ないことを考える余裕があるくらい、智也は自分の口から出ている言葉を客観的に聞いていた。 「そうじゃなくて……最近はなんかもう落ちる前提で受けてたんだよな。もちろんその時に出せるもん全部出すけど、それで落ちたとき傷つくから。またか、仕方ないかって、結果を受け流す準備を最初からしてる」 「……」 「でも今回みたいに本当の本当にやりたい役のとき、本気でオーディション受ける準備も、落ちる覚悟も持てないままガチガチに緊張して行っちゃうんだ。そんで当然落ちるだろ。で、まぁ結局仕方ないかって酒飲んで」 「あの、」 「でもお前はそういうのないだろ。毎回ちゃんと適度な緊張感を持って、自分の出せる最大の力を出してる。役者向いてるよ、お前は」 「俺は草間さんの演技、好きです」 「お前が好きでも監督やプロデューサーが気に入らなきゃ意味ないの」  要領を得ない智也の愚痴のような言葉の真意を、千紘が精一杯読み取ろうとしているのを感じる。  周りくどい話し方をしてしまうのは、未だ千紘に悩んでいることを打ち明けて良いか迷っているからだ。けれどもグダグダと前置きを置いたところで、結局は千紘に聞いてもらいたいのだ。  この若くして成功を収めた真っ直ぐな青年は、智也の決断をどう受け止めるのだろうか。もしかしたらひどく失望させてしまうかもしれない。  そうなることを恐れていることを智也は認めたくなかったけれど、いくら誤魔化しても自分に嘘なんてつけない。  いつの間に自分は、千紘からの印象をこんなにも気にするようになってしまったのだろう。  自分自身の手のひら返しに呆れながら、一呼吸置いて身体の向きを千紘から逸らしたまま本題を口にした。 「俺、役者辞めるかもしんない」 「……え」  死にたいと、そう言った時はケロっと自分も死のうかと言っていたくせに。今の方がよっぽど絶望が顔に浮かんでいる千紘に、不謹慎にも笑いそうになった。 「制作部の友達が、一緒にやらないかって声かけてくれた」 「……スタッフ側に回るんですか?」 「まだ、考え中だけど……そういうのダメかな」  智也自身もどうしたいのか分からないこの先のことを、セフレのような関係の千紘に相談するべきではないとは思う。  それでもきっと役者の草間智也を一番好きであろう千紘に、何か言葉をもらいたかった。  千紘の気持ちに応えることはしないくせに、こういう時にだけ助言を強請る自分の図々しさが嫌になる。けれども千紘は気にしたそぶりもなく智也の話に耳を傾けた。 「何でダメなんですか?」 「役者で売れなかったからスタッフに行くとか、なんか逃げみたいじゃん。役者目指してた自分にも、スタッフさん達にも失礼な気がする」  千紘に指摘されたら傷ついてしまうだろうことを、先回りして自分から言う。  スタッフに移行することを、千紘に"妥協"だと思われることが何故だかひどく怖かった。  千紘は智也の言葉を肯定も否定もせず、続けて尋ねた。 「智也さんは何で役者になりたいと思ったんですか」  以前その質問をされたのはいつだっただろうか。昔からそうやって聞かれる度に、テンプレートのように「映画の が好きだから」と答えていた。  改めて尋ねられて、ふと自分自身に問う。  なぜ、役者を目指したのか。何故、役者を続けていたのか。 「……映画が、好きだから」  時間かけて出した答えは、結局テンプレート通りのものだった。けれどいくら考えても、それが全てだった。  映画が好きだった。スクリーンの中で流れる二、三時間の物語に何度も引き込まれた。現実ではあり得ないことを、映画を通せば体験できる。  自分もそんな体験を、誰かに届ける側になりたいと思った。  そうして芝居の勉強を始め、たまたま見た舞台で植松のような役者に出会い、ますます表現の世界の魅力に取り憑かれた。  そうだ、智也は映画が好きだったのだ。  千紘は智也の月並みな返答に満足そうに頷いて、何がそんなに嬉しいのか頬を緩ませながら智也の手に自分のそれをを重ねた。 「映画が好きならさ、役者辞めても映画から離れる必要ないんじゃないんですか?どんな形でも真剣に携わるなら、誰にも失礼じゃないし文句言われる筋合いないですよ」  いつもは逸らしてしまう千紘の真っ直ぐな視線を、正面から受け止める。  すると千紘は殊更真剣に、普段よりもゆっくりと言葉を発した。 「俺は辞めるって聞いた時、智也さんが映像とか舞台から完全に離れちゃうのかと思ったから、そうやって悩んでるの嬉しいです。役者としての草間智也を尊敬しているけど、俺は映画や舞台が好きな智也さんが好きだから」 「……でもいい加減、夢にしがみついてないで現実見ないとなって思うし」 「やりたいことを諦めて安定した収入の職に就くことが、現実に向き合うってことなんですか?それって体のいい現実逃避だと思いますけど」  千紘の真っ直ぐな言葉が、卑屈な態度を取ることで身を守っていた智也の胸に刺さる。  現実逃避。その通りだった。  自分の思い描いた通りの未来を掴めない、そんな苦しさから逃げることで楽になろうとしていた。  周囲の人間と同じ型にハマって生きれば楽になれるかもしれないと、心のどこかでそう思っていた。そんな智也の気持ちを覗いているかのように、千紘は話を続ける。 「結局どんな仕事だって大変だし苦しいですよ。でも、やりたいわけじゃ無い仕事で壁にぶつかった時、きっとやりたい仕事でそうなった時よりも辛いと思う。もしも夢に向かって頑張っていたら今頃……とか、たらればを考えちゃいません?」 「……かも」 「ね。でも、やりたい仕事目一杯やって、その先で新しい選択肢を見つけたならまた頑張れるじゃないですか。役者をやってきたからこそスタッフとして映画に携わるって道が生まれたんでしょ。それは、智也さんの新しい夢なんだと思います」  夢を捨てたわけじゃ無い。夢を追った先で新しい夢を見つけたのだ。  智也が一番欲しかった答えを、千紘は気遣いや世辞ではなく心根から与えてくれた。  役者、草間智也がしてきたことは無駄ではなかったのだと。同じ役者の立場だからこそ真っ直ぐ受け止められなかった千紘の言葉が、今は同じ役者だからこそ真摯に受け止められる。 「好きなことして生きていく為の手段って、一つじゃないですよ」  役者を辞めるなら、映像や舞台の仕事からきっぱり離れなくてはいけないだなんてどうして思っていたんだろう。  智也が好きなのは映画だ。どんな形であれその仕事に携わっていたいと思う。  おそらく唯一智也のファンで居続けてくれた千紘にそう言われると、そうか、それでもいいのかと素直に思えた。  あれ程妬んでいたのに、千紘が良いと言うのなら良いのかもしれないと、不思議とそんな風にも思う。  制作、やってみようかな……と智也が呟くと、千紘はそれはそれは嬉しそうに笑った。  それに比例する様に、智也は自分の心臓がギュッと締め付けられるのを感じる。 「ところで制作部って具体的に何してるんですか?」  空気も読まずそう尋ねてくる千紘に、智也は鼻の奥に湧き出るツンとした感覚も忘れて思わず吹き出した。  笑わないでくださいよと拗ねた声を出すわりに、千紘の頬は相変わらず緩んでいる。なんとなく惹きつけられるように、智也はその上がった口角へ唇を寄せた。  キスというにはあまりにも幼稚な擦り合わせるだけのそれを、智也は何度も千紘に施す。  そのうち何のリアクションも起こさない千紘を不思議に思い顔を離すと、先程までのあんなにヘラヘラしていたにも関わらず、千紘は目を見開いて間抜けな顔をしたまま固まっていた。 「え、どしたの」 「……は、はじめて」 「え?」 「はじめて、智也さんからチューされた……」  言葉にした途端実感が湧いたのか、千紘の顔がぶわわっと突然まっ赤に染まる。  智也のキス一つでこんなにも喜ぶなんて、この男はどうかしていると思う。それなのにそんな千紘に引きずられるように、智也は全身が熱くなってソワソワと落ち着かない気持ちになった。  気づけばお互いベッドの上に正座で向かい合っている。何度も身体を重ねているのに、まるで思春期の子供のようだ。 「……もう一回、する?」  何を今更と自分でも思うのに、もっと千紘の反応が見たくて返事の分かりきったことを訊く。  千紘は消えそうな声で「い、いいんですか?」と質問返しをしてきた。 「ん、いいよ」  ぎゅっと握った自身の手のひらがドクドクと鼓動していて、脈が早まっていることを嫌でも意識する。  緊張からうまく身体が動かずゆっくりと顔を寄せる。意図的ではなくともそれが結果的に焦らすようになってしまい、我慢の限界を迎えた千紘に噛み付くように深いキスをされた。  千紘はいつも丁寧に智也に触れる。それは最初に勢いで抱かれた晩からずっとそうだった。  回数を重ねて千紘の味を知った身体は、快楽を求めて自ら腰を揺らめかせる。 「ぁッ、あ、きもちぃ、……ン、アッ」 「ッ、智也さん、きょう、すごい敏感……」 「んぅ……アッ、びんかん、なの……ッ、や、だ……?」 「やじゃない、嫌なわけないッ」 「ふッ……、ん……じゃあ、もっと……」  腕を伸ばして強請る様に擦り寄ると、一層激しく腰を打ち付けられ言葉にしようのない快感が智也を襲う。  千紘の性器が智也の肉壁を擦るたびに、高く甘い声が自身の口からこぼれ落ちる。千紘がキスを落とした場所に、千紘の触れた部分に、ビリビリと電流が走る。  熱さで頭がおかしくなりそうなのに、もっと深く繋がりたいと思う。  千紘の好意を素直に受け入れてするセックスに、幸福感で全身が満たされる。智也の身体を全身で欲する千紘が可愛いくて堪らない。  もっと早く千紘の可愛さに気がついていれば良かったのに、本当にもったいないことをしていた。べしょべしょに泣きながら智也に恋心を伝えて腰を振る千紘が愛おしくて堪らない。  抱かれているのは自分のはずなのに、智也の方が千紘を抱いているような気にすらなる。  あれほど中に出すなと言っていたくせに、今は千紘の全てを注ぎ込んで欲しいと思った。きゅん、と千紘を締め付けていやらしく愛液を催促する。 「んっ、し、締めすぎ、出る……出るから」 「ほ、しい……欲しいッからぁッ、んんん……っ、いっぱい、だ、してッ」 「……ッ智也さん……智也さん‼︎」 「あッ……⁉︎は、はげしッ……っく、イく、ぅ……イく‼んんっ‼︎︎」  もはや止める気もなく垂れ流す喘ぎ声を、千紘の性急な口付けに塞がれる。  果てるその瞬間、同時に内側に劣情を注ぎ込まれながら智也は薄れる意識の中幸福感をその身全体で感じていた。  翌朝、目が覚めると身体には鍛えられたしなやかな腕が回っていた。首を後ろに少し捻れば千紘の寝顔が視界に入り、自然に"ああ、俺はこいつが好きなんだな"と思った。  自尊心の低さが邪魔をして気づけなかった感情に一度目を向けると、その気持ちが溢れて止まらなくなる。  広いベッドを冒涜するようにぎゅうぎゅうに智也に身を寄せる千紘に、智也は目元が緩むのを感じる。  かつて千紘が好きなのは智也ではなく"副"なんじゃないかと思ったときに腹が立ったのは、もしそうなら智也自身を好きになってくれたわけじゃないということが悲しかったからだ。思えばあの頃から既に千紘に惹かれていたのだろう。自分の演じた役に自分で嫉妬するなんてあまりにも滑稽で気がつかなかった。  思えば、行為の後眠って一夜を明かすなんてことは初日以来なかった。すよすよと健やかに眠る千紘を起こすのも忍びなくて、大人しくスマホを起動させる。  液晶上にポコポコと表示される本日のニュースの中に、見知った場所の名前を見つけて思わずタップした。  ニュースには、水族館閉園のお知らせと題がついている。ニュース内のリンクから水族館の公式サイトへ飛ぶと、今までありがとうございましたという文字がサイトの一番目立つ場所に表示された。 「なに見てるんですか?」  智也が感慨深くサイトを眺めているうちに、目が覚めたのか寝起きの掠れた声で千紘が聞いてくる。ほんの少しでも体勢をずらせば智也の手元のスマホ画面なんてすぐ見れるだろうに、そうしない常識的なところを好ましいと思った。  好意を自覚した途端、好きだと思うところが沢山出てくる。以前千紘に智也のどこが好きなのか尋ねた時あまりにもスラスラと出てくる言葉の数々に呆れていたが、今はあの時の千紘の気持ちが分かるような気がした。  少し身を捩って画面に表示されているサイトを千紘に見せてやる。千紘はパチパチと目を瞬いて意外そうな声を出した。 「水族館?」 「昔、家族と行ったんだ。でも閉まっちゃうらしい」  子供の頃何度か行ったくらいの場所だ。大人になってからは忘れていたし、いざ閉館になってから惜しむのはお門違いな気がしたが、それでも少し寂しかった。 「……行きますか?閉まる前に、一緒に」 「はぁ?行くって言ったってお前は仕事で忙し……なんでそんな真っ赤なの」 「はじめて、デートらしい場所に誘ったので」 「いやデートって……」  やること散々やっておいて何を今更。つられて赤くなる頬を隠すように千紘に背を向けると、ぎゅっと改めて智也を抱く腕に力が入る。スルリと擦り寄られ、肩に触れる千紘の髪と擦れ合う素肌がこそばゆく愛おしい。 「今日オフなんです。行くとしたら慌ただしくなっちゃいますけど、ダメですか……?」  背を向けた智也の態度を拒否と受け取ったのか、弱々しい声で千紘が強請る。 「まだ六時だろ。ゆっくり準備しても大丈夫だよ」 「……え、行ってくれるんですか?」 「何で誘っといて驚くんだよ」  デートの申し出を受けた智也に、信じられないと言うような顔をする千紘が可愛くてクスクスと笑ってしまう。馬鹿にされていると感じても仕方ないのに、千紘は息を呑んでそんな智也をジッと見つめた。 「……なんか智也さん」 「ん?」 「恋人みたい」 「……ば、馬鹿なこと言ってんなよ」  真面目な顔をして言う千紘に照れ臭さが急に湧いて、つっけんどんに返す。 「……そうですよね、すみません」  再度背を向けた智也の耳に、千紘の謝罪が小さく届いた。別に謝るほどのことでもないのにとも思うが、今更「恋人」という言葉を肯定するのも気恥ずかしい。  智也は水族館までの道のりをスマホで調べながら、これから始まる一日に想いを馳せることに集中した。  だから、後ろで智也の肩に額を埋める千紘がどんな顔をしていたのか、電車のダイアルを真剣に見つめていた智也が気がつくことはなかった。  軽めの朝食を食べてゆっくりと準備し、午後から水族館へ向かった。  相変わらず不審者丸出しの千紘の格好を見ながら、これから先隣を歩くならもう少しまともな変装をしてもらわないとなと思う。  平日ということもあり、水族館の客数はそこまで多くなかった。チケットの購入列に並ぼうとすると、もうネットで買ってあると言われる。  そういうところも出会った時と変わらない。あれからまだ一年も経っていないのに、当時は不快感を覚えたその千紘の行為を今はスマートでカッコいいとすら思う。恋と言うやつは三十路を超えた男の心境まで変えてしまうようだ。  千紘について入り口の大きなアーチを潜ると、一気に視界が薄暗くなる。  薄暗い館内の中で、青緑色の光が二人の顔を照らした。聞こえてくるのは数人の客の囁き声と、ピアノのBGMだけだ。  水槽の脇には魚についての豆知識などが書いてあり、へぇ、とつい素直に感心して読み耽ってしまう。その文面は当時この場所に来た時からおそらく変わっていないのだろうが、あの頃は気にしたこともなかった。  横にいる千紘に目を移すと、思ったよりも近い場所にその顔がありギクっとする。  顔を隠す為にかけられたレンズの隙間から覗く形の整った瞳が、淡い照明を反射して煌めいていた。  胸がざわざわと騒ぐ。千紘が視線に気がつく前にさっと顔を逸らして、水槽に集中することにした。ゆったりとマイペースに泳ぐ魚たちを眺めているうちに高鳴った胸が落ち着きを取り戻していく。  そうして大きな水槽をゆっくりゆっくり泳ぐエイの姿を、その速度に引きずられるようにのんびりと歩きながら眺めていると、智也と同様に前を見ていなかったであろう少年が足元にぶつかった。  ぐらりとバランスを崩すが、隣から腕を強く掴んで支えられる。ごめんなさいと謝る少年に、智也の代わりに千紘が「こちらこそごめんね」と返した。  少年が家族の元へ去ってからようやくハッとして礼を言うと、千紘が少年を見つめたまま小声で呟いた。 「今の子」 「え」 「服、暗闇で光ってる。こういうとこでああいうの着せると迷子防止に良いですね」 「ほんとだ、賢いな……っておい」  智也が少年に目を向けている隙に、千紘は先程腕を掴んだ手をさりげなく引き下げて指を絡めてきた。 「ちょっとだけ、五歩分だけ、繋いでたいです」  そう言うとぎゅっと握る手に力を込められる。  周りに聞こえないよう耳元で低く囁かれた声になんとなく居た堪れなくなって小さく身を捩った。  不自然にならない程度に周囲を確認すれば、先程の少年の家族以外に人影はない。彼らは前を歩いているし、少しくらい問題ないだろうと思って「五歩だけな」と返してた。  途端嬉しそうに小さく「やった」という声が鼓膜を揺らし、同時に緩やかに手を引かれる。一歩を普段の三倍くらいの速度で進む千紘に黙って付いて行った。  別に悪いことをしているわけでもないのに、背中に妙な汗をかく。ジワジワと顔に熱が溜まる。智也は千紘の方が見れなかった。  千紘はきっちり五歩進んでからパッと手を離した。まだ人はいないし、もう少し繋いでいても怒らないのに。そんなことを考えてしまう自分が、それを望んでいるのは明白だった。  千紘の方は早々に切り替えているようで「あっちにふれあい広場あるみたいですよ!」と、先程までの空気を一切感じさせない笑顔で智也の前を歩いた。  ふれあい広場にはヒトデやネコザメの肌などを触ることの出来るエリアの他に、ドクターフィッシュ体験なるものがあった。  千紘がドクターフィッシュに角質の餌やりをしたことがないと言うので、十五分の体験に五百円玉を差し出す。  足を水槽に入れるとツンツンと十数匹の小魚たちが一気に二人の足をつついた。 「く、くすぐってぇ」 「もぞもぞしますね」 「なんか、すげぇいっぱいチューされてるみてぇ」  堪えきれずケラケラ笑っていると、急に足首を掴んで水槽から上げられる。掴んだ主は当然、千紘だった。  千紘はすこしだけムスッとした顔を隠しもせずに「もう終わりです」と言って傍に置いていたタオルで智也の足を丁寧に拭いた。 「はぁ?まだ五分もたってねぇだろ」 「でも終わりなんです」 「何でだよ、俺まだ足に垢残ってるぞ!」 「だったら俺がチューして取ります!」  とんでもないことを言い出す千紘にぎょっとする。 「何お前……まさか、魚に嫉妬してんの……?」 「……」 「まじかよお前」  そんな幼稚な嫉妬を向けられて悪い気がしないのだから、相当智也も浮かれている。  顔を伏せて智也の足を拭く千紘に、もう一度こちらを向いてくれないかと思った。  自覚していなかっただけで、自分は相当千紘のことが好きだったんだと今日だけで何度も思い知らされる。こんな気持ちを千紘はずっと智也に抱えていたのかと思うとたまらない気持ちになった。  黙って拭かれていると、靴下まで履かせようとしてくるので慌てて足を引く。自分でできるからと上擦った声で固辞する智也に、千紘は残念そうな表情を見せた。  その顔に絆されてたまるかと、さっさと靴を履いて立ち上がり出口に向かうと、今度は千紘が焦ったように自分の足を拭き始める。  立ち止まって千紘を待っている間に、出口前に展示されていた水槽の分厚さを表すガラスのディスプレイが目に入る。  あんなにも近くに感じていた魚達は智也たちとはこんなに分厚いガラスで隔てられていたのかと、少し自分の気分が落ちるのを感じた。 「なんか、こういうの見ると寂しくなりますね」  ふと隣で呟かれた言葉に、自分の心の声が漏れたのかと思いどきりとする。いつの間にか靴を履いて隣まで来ていた千紘が、智也と共に展示物を見つめていた。  平静を装って「何でだよ」と質問すると、千紘は「なんとなく……」と言葉を濁す。  今までまともに感想などを話し合ったことがないから気がつけなかっただけで、もしかしたら智也と千紘は感性が似ている部分があるのかもしれない。  水族館を出て外の眩しさに目を細めながら、今まで見落としてきた千紘の内側の部分をもっと知りたいと思った。 「帰りたくないなぁ」  千紘がぽつりと呟く。智也も同じ気持ちだった。 「明日の仕事って何時から?」 「朝の八時には家出ます」 「もしそっちが朝辛くないなら今日も泊まろうか?」 「……良いんですか?」 「良いよ、ってこのやりとり今朝もやったな」  クスクスと笑うと、千紘は何故だか呆然として智也を見つめていた。  千紘の自宅に戻り、帰りに買ってきた惣菜を二人で食べると、智也は早々に風呂に入った。千紘の自宅に行くときは必ず性行為をすることが前提なので、それは既に習慣になっている。  もうこの広い脱衣所にも大きな浴槽にも慣れたなと、湯に肩まで浸かりなが物思いに耽る。昨晩のセックスを思い出して、あの幸福感と快楽をこれからまた受けるのだと思うと身体が疼いた。  智也と交代で千紘も風呂に入り、いつも通りベッドで待っている智也の前に座った。  けれども、千紘は水族館を出た辺りから変わらずずっと浮かない顔をしている。今日は乗り気ではないのかと尋ねるが、そんなことはないと食い気味で返された。  実際、千紘の性器は既にゆるく立ち上がってスウェットを押し上げていたし、智也の身体を求めていることは明白だ。  ならば何故と考えていると、伸びてきた千紘の手がスルリと智也の頬を撫でた。その感触が気持ちよくて擦り寄ると、大袈裟なほどびくりと千紘が震えた。 「何、どしたの?」 「……こっちのセリフです」  困惑した顔を見せる千紘につられて智也も狼狽える。何が言いたいのか察そうと千紘を見つめるが、さっと頭を下げて目を逸らされた。 「昨日の夜から、智也さんおかしい。何なんですか、もしかしてこの関係、お、終わらせたいとか思ってますか」 「え」 「優しいから、智也さんは優しいから、言い出せなくてそんな態度とってるんですか」 「いや何の話……」  千紘が突拍子もないことを言うのも性行為の際に泣くのもいつも通りだが、今日はなんだか普段とは違う空気を感じる。  何か言わないといけないのは分かっているのに、何を言っても不正解な気がして黙ってしまう。結局、沈黙を破ったのは千紘だった。 「智也さんが俺に抱かれるのって、自傷行為と一緒ですよね」 「え」  思いもよらない言葉をかけられて咄嗟に言葉が出ない。けれども返事は求めてないとでも言うように千紘は下を向いたまま言葉を続ける。 「自分のことが嫌いだから、好きでもない男に抱かれて心も身体も傷つけて、自分で自分を罰して安心してる」 「……」 「それで俺はそれにつけ込んでる」  ようやく顔を上げて智也の目を真っ直ぐ見つめる千紘の表情は、今にも泣き出しそうなのを堪えて歪んでいた。 「今日、ずっと、本当の恋人みたいって思う瞬間が沢山あって……でも智也さんにそんな気がないの分かってるから、そうやって舞い上がるたびに落ち込んで」  千紘の声が震える。一度息を吸い直して声を絞り出すように呟いた。 「貴方が、俺を好きになってくれたらいいのに」  その言葉にハッと息を呑む。智也は今まで自分のことばかりで、千紘がこれまでどんな想いで智也を抱いていたのか考えてたこともなかった。  いざ恋心に気がついた後も自分の中だけで高揚感に浸り、舞い上がって、千紘へ想いを伝えることすらしていなかった。  あまりにも身勝手な自分にショックを受けて言葉を発することの出来ない智也に、千紘は柔らかい口調で語りかける。 「ねぇ、智也さん。智也さんは、俺のこと一度もちゃんと名前で呼んでくれたことないんですよ。無意識だろうけど」 「……そ、うだっけ?」 「うん。最初に、千紘が本名だからそっちで呼んでくれって言ったのに。ずっと"お前"とか"なぁ"とかって話しかけてきてた。無理強いするものじゃないから言わなかったけど、いつか呼んでくれたらってずっと思ってた。……ねぇ、智也さん。俺に抱かれるの辛い?」  控えめに智也の手を取る千紘に驚いてほんの少し身体が跳ねる。千紘はその反応にもまた傷ついたようにぎゅっと眉間に皺を寄せて下唇を噛むと、一瞬間を置いて、意を決したように再度口を開いた。 「俺のこと、嫌い?」  それきり黙って智也の返事を待つ千紘を見ながら、ぼんやりと、彼は水族館を周っている間もずっとそんな風に思っていたのだろうかと考えた。智也が千紘のことを嫌っているのだと。  智也は千紘への劣等感や嫉妬心を、言葉で伝えたことはない。けれども決して鈍いわけではない千紘は、智也のマイナスな感情を感じ取っていただろう。  目の前の千紘はまるで有罪判決が下ることを覚悟している被告人にような顔で智也を見つめている。  もしも今、智也が嫌いと言ったら千紘はどうするのだろうか。智也を諦めるだろうか。  自惚れではなく、なんとなくそれは無いだろうと思った。それでもきっと酷く傷つくんだろうなと想像する。  それは、すごく嫌だと思った。 「好きだよ」 「……え」 「俺、千紘のことが好き。ちゃんと言わなくてごめん」  あまりにも当たり前に千紘から愛を受け取りすぎて、智也の方から千紘へ返すことをすっかり怠っていた。  智也が本当に普通のカップルのデートみたいだなんて浮かれていた隣で、千紘はずっと悩んでいたのだ。そうさせてしまった上に、気付けなかった自分が嫌になる。  未だ口を開けて呆然としている千紘の不安を取り除いてやりたくて、智也は拙いながらも言い訳を並べた。 「名前呼ばなかったの、最初は多分、自分に自信がないから、無意識に態度でだけでも千紘の上に立ってたかったんだと思う。それが癖づいちゃってずっと呼べなかったけど……わざとじゃ無いよ。でもごめん」 「……う、うそ、待って」 「セックスを受け入れたのは、千紘の言う通り、自傷行為だったんだと思う。正直言うと千紘が俺のこと好きっていうのも優越感を感じてたんだ」 「ま、待って、ともやさん」 「でも、千紘のことが好きって気がついてからのセックスは死ぬほど気持ちよかったしすげぇ幸せだった。やばいね、好きな人とのセックスって、病みつきになりそう」 「待って‼︎」  今にも泣き出しそうなほど顔を歪めて、耳から首まで真っ赤な顔をした千紘が智也の肩を掴んで制止する。その手が熱を持っていて、智也にもジワジワとうつった。  首を傾けて、肩に置かれた手に頬を擦り寄せる。驚いて離れようとする千紘の手を掴んで、スルリと指を絡めた。 「千紘に触られると、ビリビリしてドキドキする」 「お、おねが、待って、しんじゃう」 「死なないで。好き、千紘」  智也が自分の気持ちをちゃんと伝えなかったから不安になって死にそうな顔をしていたのだろうに、伝えたら伝えたで死んでしまうらしい。  智也を救っておいて自分は死ぬだなんてあんまりだ。 「千紘、さっき好きになってくれたらいいのにって言ったじゃん」 「い、言ったけど……」 「好きだよ」  ヒュッと喉元で音を鳴らして息を吸う。千紘は堪えていた涙をついに溢してしまった。片想いでも両思いでも泣くんだな、と泣かせた本人ながらに思う。 「千紘、好き、大好き。千紘に触ってもらいたい。キスして欲しいし、抱いて欲しい」 「う……」 「抱いてくれる?」  泣きすぎて嗚咽を漏らし、返事もできない千紘にそっと口付ける。落ちる雫がもったいない気がしてぺろりと舐めると、言葉の代わりに普段より乱暴に押し倒された。 ♦︎  「次のシーンのカメラ位置確認します。キャストの方は控室でお待ちください!」  智也の声が広いスタジオに響く。その声に従ってキャスト、スタッフ共に動き出した。  智也は今、制作部の下っ端として映画の撮影に参加している。初めてのことに混乱したり慌てたりする事も多々あるが、役者の頃とは違う視点で現場に携われる日々を純粋に楽しんでいた。  智也が参加している撮影は、以前智也が観に行った、千紘と植松の共演した舞台を映画化したものだった。公演は好評で、この勢いに乗っかって映像化もしてしまおうという算段から始まった企画だ。  智也自身も好きな舞台だったため、制作に携わることが出来て嬉しく思っていた。  慣れないことも多いが、制作部の一員として毎日あちこち走り回っている。ケイタリングスペースを整理していると、後ろから聞き慣れた声に名前を呼ばれた。 「草間くん」  振り返った先には、映像用に舞台の時よりも装飾の抑えられた衣装を身に纏う植松がいた。 「なんか養生テープ腰にゴロゴロ付けてる草間くんも見慣れたなぁ」 「あはは、まだまだスタッフとしては至らない点も多いですが……」 「そんな事ないよ。役者やってたからかな、細かいところに気づいてサポートしてくれるから助かってるよ」  舞台役者である事にプライドを持っている植松が映画に出演するのは珍しい。それ程あの舞台は、植松にとっても思い入れの強い作品だったのだろう。別の役者が代打で出演するくらいなら自分がやると、プロデューサーが断られる前提で出したオファーを進んで引き受けてくれた。 「三人で共演したいって、言ってくださったのにすみません」 「でも結果的には三人揃って一つの作品を作ってるじゃん。スタッフもキャストも一緒だよ」  役者の中には、キャストこそ偉いと勘違いしてスタッフを見下す者も多い。そんな中ベテランの植松にそう言ってもらえて智也は自然と顔が綻ぶ。  当然のように肩に回された腕の重みをありがたく感じながら礼を言うと、後ろからぐいと腕を引かれた。 「わ……っ!ちょ」 「あ、モンペだ」 「ちっ、千紘!」  掴む腕の先には千紘がいて、不機嫌な顔を隠さずに智也を睨んでいる。  さすがに植松に敵意を向けられないからだろうが、だからといって智也に当たるのは理不尽ではないだろうか。  今回の作品の撮影に入ってから、千紘が智也にベッタベタに懐いているのはスタッフ、キャスト間の中でも周知の事実となっていた。  千紘は現場入りした初日、「神原さん」と自身を呼ぶ智也相手に、大声でやだやだと駄々をこねて撮影中も千紘呼びを強要させた。こうなるくらいならもっと早くから名前を呼んでやっておけば良かったと後悔しても遅い。千紘のそんな姿は見たことない、草間は一体何者だと、浴びたくもない注目を一身に受けたのは苦い思い出だ。  草間智也にちょっかいをかけると、どこからともなく神原千紘がやってきて智也を回収していく。それが可笑しくてわざと智也に構ってくる輩もいるくらいである。植松も当然ながらその一員だ。  最初そこ、制作部の一番下っ端という立場でありながら超人気俳優に可愛がられている事が気に食わないと、智也に嫌がらせをしてくる人間もいた。  けれども制作部トップである杉本に加えて、もともと役者の頃に世話になった他のスタッフや植松が気を回してくれたお陰で今はつまらないやっかみを受けることもない。 「千紘、お前は俺に構ってないでメイク直してもらえよ」 「だって、植松さんは智也さんに構ってるのに!」 「植松さんは準備終わってるからな!」  周囲で、またやってるよと笑われているのが耳に入り顔が熱くなる。ただの友人同士のじゃれあいならいい。しかし智也と千紘は公言していないとはいえ恋人同士なのだ。こんな風に大勢の前で痴話喧嘩をするなんてみっともない。  はやく戻れという意を込めて掴む腕をポンポンと叩くと、千紘は渋々手を離した。 「智也さん、夜のロケ弁はすき焼きが良いです」 「お前に合わせてたら毎日すき焼き弁当だろうが」 「俺もすき焼き弁当食べたいな」  千紘を嗜めていると横から植松にそう言われ、智也は満面の笑みでそちらへ向き直る。 「じゃあすき焼き注文しますね!」 「智也さん‼︎」  千紘の抗議をつんとした態度で無視して「メイクさん!神原千紘はここにいます‼︎」と大声で叫ぶと、向こうから「神原さん!ヘアアイロン使うんで早く帰ってきて下さい‼︎」と若い女性の声が返ってきた。  仕事で呼ばれては千紘も行かざるをえない。ぐぬぬと悔しそうに唸ってから、ようやく控室に戻っていった。  その後ろ姿を植松と笑って見送る。  あんな調子で大丈夫なのかと心配していたのも、それこそ最初のうちだけだ。  撮影が再開すると、智也の前ではあんなに甘えただった千紘は、そのことを感じさせない程引き締まった表情でカメラの前に立っていた。  やはり、神原千紘は最高の役者だと思う。この役は千紘以外には務まらないと、この場にいる誰もがそう感じている。植松とセリフの掛け合いをする千紘は、決して目の前のベテラン役者に引けを取らない。  スタッフの立場でありながら目の前の演技に見惚れている間に、監督の「カット‼︎」の声が現場に響く。  助監督の鳴らすカチンコの音がカンカンと鼓膜を揺らす。  カメラの奥でただの千紘に戻ったその顔が、顔を上げた先で智也を捉えてふわりと笑う。  その笑顔に、胸の内の恋心が熱を持って込み上げる。この男は泣きながら俺を抱くほど俺に惚れているんだぞと、世界中に言いふらしたい気分になった。
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