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若い男は暗闇が支配する山道のなかを走っていた。
「はぁ……はぁ」
何かから逃げるように闇雲に走る。
あたりには生い茂る木々しかなく、人の気配はおろか、かすかな光さえ見えない。
「ここはどこだ……っ、はぁ」
と、後方からエンジン音が聞こえてきた。
もの凄いスピードで近づいてくる。
立ち止まり振り返ると、車は目前だった。
スピードを緩めることなく迫り来る車。運転席に座る黒い影。
ヘッドライトに照らされながら、男は顔を歪ませ叫ぶ。
「やめろ……っ! うわああああ」
瞬間、深く閉じていた瞼をハッと見開いた。
ベッドへ横になっていた身体を起こすと、男は大きく息をする。
「はぁ……夢か。やけにリアルだった」
汗ばんだ額と拭うと時計を見た。時刻は6時10分。
「もうこんな時間か。……悪夢のせいで寝た気がしないな」
ぼやきながらも立ち上がった。
朝食をとったあと、男はスーツに着替えて家を出た。
足早に駅に向かう。
と、道ばたに落ちているスマートフォンが目に入った。
よく見ると自分のものだと気づく。
「あれ、なんでこんな所に落ちてるんだ? というかそもそもスマフォの存在忘れてた。昨日は何してたんだっけ?」
記憶を探るも思い出せない。
首を捻っていると突然、着信音がなり出した。
「うわっ……びっくりした。ん……だれだ?」
なぜか名前はおろか番号さえも表示されない。あるのは通話を開始するアイコンのみだった。
男は、若干不気味に思いながらも、恐る恐る電話に出た。
「もしもし……」
「ね ェ……浩 司、くん?」
スマートフォンの向こうから聞こえてきた声は、ノイズ混じりでよく聞き取れない。
ただ女性だということはわかった。
「……すみません。よく聞こえないんですが……どちら様ですか?」
「……こウ、じく……ネ え……」
「あの、だれですか?」
「返事、し テよ……」
どこか暗い声色に、男は怖くなって電話を切った。
「なんだよ……意味わかんねぇ」
声の主は、男の名前を知っていた。
だが、男自身はそれが誰なのか心当たりがなかった。
着信履歴を確認しようとタップするも、スマートフォンの携帯画面は真っ暗だった。
「何だ? 落とした衝撃で故障したか? あっ……それより電車に乗り遅れる! 急がないと」
男はスマートフォンを仕舞うと走り出した。
駅前のオフィスビル。いつものように男は仕事に打ち込んだ。
パソコンに向かい、キーを叩く。
その時、机上の電話機が鳴り始めた。
男は一瞬躊躇するも、疑念を振り払い受話器に伸ばした。
「はい。浅井商会です」
「浩 司くん……?」
その声は、朝聞いた相手と同じだった。
やはりノイズ混じりでひどく聞きづらい。
男は動揺を押し殺し言った。
「どうして職場の連絡先を」
「ねぁ、お願い……聞こえて、る でしょ? 浩司くん……返事し……て。こ ウ ジくん」
相手は、男の言葉にかぶせるように話し続ける。
「あの……仕事中に電話して来ないでください。迷惑ですっ」
乱暴に受話器を置くと、ため息交じりに舌打ちをした。
何なんだよ、とひとりごちるも、人目が気になり一度周囲を見回した。
近くに社員はおらず、だれも男の異変を察した者はいない。
男は肩を落とすと、不安に包まれながらも仕事に戻った。
午後7時半、仕事を終え、男は会社をあとにした。
駅に向かうがその足取りは重い。
二度の意味深な電話。
男は、何か重要なことを忘れている気がしてならないが、どうしても思い出せない。
恋人や仲の良い異性の友人はいないはずなのに、と納得できないまま歩を進める。
公衆電話が見えてきた。
男は、嫌な予感がした。
けれども、今さら引き返すなんてと思い、速足で通り過ぎようとした。
刹那、つんざくような音がした。
それは男にとって、心臓を突き破るような破壊力のある音だった。
肩を揺らして立ち止まると、音のするほうを見た。
公衆電話が鳴っている。
周りに人気はない。
男は息をのんだ。
ゆっくりと歩み寄り、公衆電話ボックスのドアを開けた。
さらに一歩踏み出し受話器を取ると、震えながら耳にあてた。
「……浩、司く」
聞こえてきた声は、やはりあの声だった。
ノイズがかっているが、これまでで一番はっきりと聞こえる。
それが余計に気味悪くさせた。
「なあ」
「ねぇ、浩司くん」
「頼むよっ。何なんだよ」
「……私……ぜったいに許さないから……」
「っ……いい加減にしてくれよ!」
男は受話器を投げ出し、その場から逃げ出した。
「何なんだ。許さないって……何だよ、それ」
押し寄せる恐怖。
額に浮かぶ脂汗を拭うこともせず走り続ける。
気づけば人気のない真っ暗な山道にいた。
「ぇ……どこだここは。だれかに……そうだ。スマフォで助けを」
胸ポケットに手を入れる。
取り出した瞬間、着信音が鳴り始めた。
画面に名前表示はなく、通話のアイコンのみしかない。
心臓が痛いくらいに強く打ちつけている。
足がすくんで、男は動けない。
胃液が喉のほうまで上がってきて吐きそうになった。
苦い液を押しやるように飲み込む。
それから、意を決して口を開いた。
「もし……もし」
「浩司くん? 私待ってるからね」
やはり声の主は、同じ相手だった。
だが、これまでと違い声は鮮明で、さらに驚くほど穏やかな声色だった。
「え……待ってるって?」
「あなたが目覚めるまで、ずっとずっと待ってる。あなたを愛してる。心から愛してる。置いていったら……私許さないから」
――あなたを愛してる。
その言葉で、忘れていた記憶の欠片がパズルのピースのように合わさっていく。
そして女性の顔かたちが鮮明に脳裏に浮かんだ。
「あ、そうか……そうだった、俺は……」
刹那、猛スピードで飛ばす車が現れた。
立ちすくむ男に襲いかかる車。
ヘッドライトの光が視界いっぱいに埋め尽くし、耳を引き裂くような音と共に意識が途絶えた。
ゆっくりと瞼を開いた。
男はベッドの上にいて、視界に入ったのは涙ぐむ若い女性だった。
「……よかった。もう目覚めないかと」
「っ……ぁ」
声を出そうとするも掠れていて上手く出せない。
男は全身に激痛を感じながらも、必死に起き上がろうとした。だが、女性がそれを制する。
「あぁ、無理しちゃだめよ。車に轢かれて大怪我したんだから。それに……浩司くん、丸三日眠ってたのよ?」
「まる……みっ……か?」
「そう。心配で心配で……私なんどもあなたに語りかけていたのよ。ねぇ、浩司くん。返事してって。あなたが目覚めるまで、ずっと待ってるからって。きっと想いが通じてたのね。嬉しい」
「そ……んな……」
「これからも、ずっと一緒よ。浩司くん。あなたを愛してる……愛してるわ」
包帯の巻かれた男の手を握り、色白の華奢な女は微笑む。
やや猫目の整った顔立ちに、ウェーブのかかった細い髪。
凛と澄ました表情で、投げかける甘い視線。
そして、男への愛の言葉。
男は、なにもかも思い出した。
そして、すべて理解した。
数日前せっかく逃げ出したにも関わらず、ストーカー女にふたたび監禁されてしまったことを。
コンクリート剥き出しの冷たくて湿気臭い閉鎖的な空間。窓ひとつない地下室で、男はこれから待ち受ける絶望的な日々を想像し、すすり泣いた。
その様子に女は、首を傾げる。
が、すぐに察したような顔をしたのち、満面の笑みを浮かべた。
「ああ、傷口が痛むのね? ひどい怪我だったもの。でもお医者さんは呼べないの。わかるでしょ? けれど、安心して。これからも、私がずっとそばにいて看病してあげる。あなたを愛してるんだから。ずっと一緒。あ、でも、今度また逃げようとしたら……次は轢き殺すから」
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