師走の昼下がり

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 三十路を迎えたばかりだった。師走の昼下がり、俺は病室で一人窓の外を眺めていた。古びた木のベッドに浅く腰掛けて、小さく息を一つ。不意に込み上げてくる咳に顔をしかめた。 「ゴホ……ゴホッ」  痰絡んだ咳。すぐには止まらなかった。何度も咳き込んで、時折嗚咽を交えた。息をする間もない。しばらくして、ようやく治まった。胸の痛みに耐えながら、覆っていた手を見る。 「…………」  泡沫を伴う血は、蒼白な掌を美しいほどに赤く染めた。宣告は突然だった。一年ほど前である。 「労咳です」  町医者が深刻な顔つきで言った。 「え、何かの間違いでしょう。少し風邪が長引いているだけですよ」  思わず笑った。医者は笑わなかった。自分に限ってそんな事はない。そう疑って止まなかった。  洗面台で汚れた手を洗い流す。それから、水を含んで鉄臭い口内をすすいだ。顔を上げると鏡に映る自分と目が合った。  ひどく疲れた顔をしている。頬はこけ、目に生気もない。なんて様だ。無性に可笑しくなって、濡れた手をひたいに持っていくと声を出さず笑った。  ここ数日の間に、三度喀血した。今日が四度目である。月日を追う事に増していく咳。肺が締めつけられるような痛みに襲われる事もしばしばあった。  食欲も減った。食べ物が喉を通らなくなり痩せていく自分を鏡に映し、虚ろな視線を漂わせる。こうやって人は堕ちていくのか。次第に死というものが現実味を帯びるようになった。  あとどれくらい身体は持つだろうか。半年か三ヶ月か、それとも…………。  息を吐く。と、部屋の外から誰かが近づいてくる気配がした。蛇口の栓をひねると水を止め、白い手ぬぐいで濡れた手と口を拭く。口元に血が付いていたらしく、手ぬぐいが一箇所赤くなった。  コンコン。ノックの後、ドアが開いた。妻だった。 「体調はどう?」  思いわずらう優しい声色に、目尻を下げる。 「やぁ、今日は珍しく気分が良いんだ」  気づかれないようにそっと手ぬぐいを懐へ仕舞った。 「そう。よかった。さっき先生と話してきたわ。変わりないみたいね」 「あぁ、たまには外へ散歩にでも行こうか」 「駄目よ。身体に悪いわ。先生だって」 「平気さ」 「でも」 「頼む」  僅かな沈黙の後「……少しだけね」と不安を滲ませながら妻は笑った。闘病生活は苦しかった。だからこそ、彼女の存在は有り難かった。  寒空の下、病院の周りを二人並んで歩いた。冷たい風が頬を撫でる。人気はない。 「寒くない?」 「平気だよ」 「辛くなったら言ってちょうだい」 「だから、平気だって」 「わかった。もう言わないわ」 「ありがとう」  カランコロンと下駄を鳴らす。と、妻の鼻緒が切れかけている事に気付いた。 「ちょっと止まって」 「なに?」  懐から手ぬぐいを取り出し、血の付いた部分を隠しながら縦に割く。 「ほら、下駄を脱いで。鼻緒を直してやるから」 「え」 「いいから、ほら」  半ば強引に下駄を脱がせると、その場に屈み鼻緒を付け替えていく。 「もうこんな寒い所で……」  という妻の声は心なしか嬉しそうであった。  残り少ない余命を知った時、妻の絶望的な顔が脳裏に焼き付いて離れない。代わりに自分が死にたい、と言って妻は泣いた。ごめんと謝った。妻は絶えず頬を濡らした。  余命を知ってから今日まであっという間だった。妻は寄り添い懸命に看病してくれた。そんな彼女を心から愛していた。笑うとえくぼができる可愛い妻。  こんな時間を過ごせるのはいつまでだろうか。共に居られるのは……。割いた手ぬぐいを穴に通していく。下駄を裏返し結んだ。その時だった。突然、激しく咳き込んだ。 「ゴホッ、ゴホ」  屈み込んだ体勢のまま、膝をついた。喉の奥から込み上げるものを感じた。片手で覆った瞬間、生暖かいものを受け止めた。 「あなたっ」  悲痛な声が降ってくる。妻が背中に手をあてた。今にも顔を覗き込もうとしている。見せたくない。このような喀血した無様な姿を。  視界が霞む。呼吸が上手くできない。ずっと隠していた。喀血した事を知られたくなかった。どうせばれてしまう事だと分かってはいた。それが今かほんの少し後か、それだけの事。  だが、それでも今は――。顔を上げると同時に妻を抱きしめた。強く引き寄せ、顔を見られないよう身体をぴったりと密着させる。 「っ……あなた?」 「なんでもない」 「え?」 「なんでもないよ。ただ……もう少しだけこうしていたいんだ」  俺はもうすぐ死ぬ。けれど、今はまだ生きている。こうして妻の温度を感じている。 「……あなた」  当惑した妻の声。愛する者を置いて、先に逝くのが辛い。背中へ回す手に力を込めると、瞼を下ろした。
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