ーまさか

3/3
568人が本棚に入れています
本棚に追加
/55ページ
 俺は、かっとなって、橘さんの大きな体を押しのけた。どしどしと廊下を歩く。 「佑」  リビングのドアノブは掴めなかった。後ろから橘さんに抱きすくめられ、行く手を阻まれた。 「松宮先生にヤキモチ焼くなんて、そんなに俺のことが好きだったのかー」 「ヤキモチじゃない」 「そんな、まんなかゆうさんに質問です」  緩む気配のない馬鹿力に抗議するように俺は身をよじって、橘さんのシャツを引っ張った。 「はあ?」 「あなたはこのたび、知らない土地へと引っ越してきました。それから三日。お腹を出して寝ていたまんなかさんは、ものすごい風邪を引いてしまいました。さて、そのあとどうしますか?」 「だから、俺はまんなかじゃなくて、ま、な、か。ケーサツ署の窓口のおっさんも間違えてたんだぞ。あんただろ。変なこと教えたの」 「それより質問の答えは?」  いい年して腹を出して寝るかとか、反論どころはいろいろあったけど、口も手も止めて考えた。 「まあ、気合いで治す」 「いやいや。速やかにお医者さんにかかってください」 「いいじゃん、べつに。俺は、なるべく医者には行きたくねえの。あのじーちゃん先生のとこだって、近くになかったら、ゼッタイにかかりつけなんか──」  そこまで言うと、俺ははっとなった。顔を上げ、橘さんから体を離す。 「そうか……」 「きみがなにを気にしてるのかわからないけど、かかりつけの医者って、普通は家から近いもんでしょ。草加せんべいだって、松宮先生だけにあげてるんじゃなくて、ブー課長にも定岡さんにも晴海にもあげてるんだよ。松宮先生は、ほら、仕事でもちょくちょく顔を合わせるから」  俺はてっきり、松宮さんと橘さんは警察署で知り合ったんだと思っていた。  検案の依頼を受けて、ときどき現場にやってくる美人女医。そんな彼女に目をつけた橘さんは、どうせなら自分もお世話になろうとクリニックに通うことにした、と思っていた。  だが、実際は違っていた。  橘さんは、こっちに来たばっかりのころ、具合が悪くなって、近くにあった病院へ行った。そこがたまたま、松宮さんのとこだったんだ。 「頭痛のことも、単なる職業病みたいなものなのに、医者通いしてるってなったら、変な心配しちゃうでしょ」 「……うん」  橘さんの広い胸に、俺は自らすり寄った。額をくっつけ、胴に回した腕に力を込める。 「そっか、そうなんだ……。松宮センセとは、恋人だったわけじゃないんだ」 「え?」  俺の言葉に驚いているような橘さんの声。  俺は腕をほどいて、慌てて言う。 「あ、いや。恋人だったんでもいいけどさ」 「……」 「ただ、松宮センセとは、これからも会うことになりそうだから、どんな顔していいのかな、と思ったりなんかして」  俺の肩をがしっと掴み、橘さんは自分から離した。目を閉じ、眉間にしわを寄せる。 「なに、どうしたんだよ」 「きみは知ってたんじゃないの? いや、俺は話してないから、知らないのか。でも、薄々感づいていて、それでも俺のこと好きになってくれたんじゃ……」 「は? なに言ってんの。一人で」  俺が窺うと、眉間のしわがますます深まった。 「俺……女の子には全く興味ないんだよね」 「はい?」 「いわゆるゲイってやつ」  最後は、あっけらかんと口にした橘さん。  俺は思いっきり身を引いた。廊下の壁に背中から張りつく。  そして、隣近所にまで響いただろう音量で絶叫した。 「しーっ。だから、佑。声が大きいって」 「じゃ、じゃあ、橘さんは、はなから松宮センセは眼中になかった、と。……そんでもって、俺のことは、はなからそういう目で見ていた、と」 「うん。……と言うべきか、違うと言うべきか」 「そ、」  それはそれでいろいろ安心できるにせよ、やっぱりあぐらはかいていられない。  橘さんは、頭のネジがところどころ緩いものの、外見も性格もすこぶる男前だ。そんな人が、どんなにその気がないと言っても、そうは問屋が卸さないってこともある。  ……それに、今度はべつ次元の問題もある。 「だけどね、佑。さすがに、男ならだれとでもってわけじゃないよ。なんだか、ものすごい想像をしているように見えるけど」 「……わかった?」 「うん」 「いま、定岡さんの顔がよぎった」  その途端、橘さんが吹き出した。顔の前で手を振る。 「定岡さんはああ見えて奥さんがいるんだよ」 「え。定岡さんて結婚してんの?」 「うん。で、いまは単身赴任中」 「へえー……」  まだ壁に張りついたまま、定岡さんの顔を思い浮かべた。きっと、いまごろくしゃみでもしてるんじゃないだろうか。 「もしかして……幻滅した?」  そこへ、珍しく真剣さを響かせた橘さんの声が降ってきた。見上げれば、ちょっと物憂いげな瞳とかち合う。  あまりに不安そうだったから、俺は間髪容れずに「ううん」と返した。すると、橘さんの堅かった表情が徐々にほころんでいく。 「いまとなったら、俺も、橘さんとおんなじゲイなわけだし」  俺だって、だれでもよかったわけじゃない。橘さんだったから、その胸に思い切り飛び込めたんだ。
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!