ー下り坂

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 次の日の朝、座卓での食事中に、ふと気づいたことがあった。 「そういえば、橘さん。ここ最近、家に帰ってないじゃん?」  たしか、うちの合い鍵を渡したのが一週間前。橘さんはそれ以来、俺の家で寝泊まりをしている。 「ああ……だねー」 「だから、そろそろ帰って、空気の入れ替えだけでもしといたほうがいいよ。じゃないとカビが生える」  橘さんは、空にしたどんぶりを持って、ご飯のおかわりをしに台所へ行った。そこから声を飛ばす。 「でも、しばらく忙しいんだよね」 「じゃあ、俺が掃除しに行ったげる」  元の位置にあぐらをかいた橘さんは、ご飯を口に運びながら言う。 「悪いよ」 「ぜんぜん。きょう、バイト休みだし。ヒマだから」 「一人じゃ大変でしょ」 「そんなことないよ。フローリングと水回りだけにするから」 「それでも大変だよ」 「……」  お茶碗と箸を置き、俺は橘さんを見据えた。 「なに。そんなに俺に来てもらいたくない理由でもあんの?」 「え?」 「やけに遠慮してるじゃん。橘さんらしくなく」  橘さんはお新香へ箸を伸ばし、一枚をつまんだ。  いかにも朝の食事風景らしい、小気味よい音がした。 「違うよ。俺はね、きみ一人であそこを掃除するのは、本気で大変だろうと思って」 「あ、なにげにうちは広いですから自慢してる? すみませんね、どうせうちは狭いですよ」 「ゆ~」 「そして、態度もデカいだれかさんが入り浸るから、また狭い狭い」  いじけたように下唇を突き出した橘さんは、大げさな音を立ててみそ汁をすすった。  アラサー世代のいい大人がこの態度。ほんと憎めない、かわいい人。 「てことで、マンションのカギ、置いてってよ」  俺は、ごちそうさまと手を合わせ、食器を持ち上げた。 「だったらさ、ついでに弁当でも作って持ってきてくれないかな」  流し台に立ち、スポンジを取ろうとしたけど、手を引っ込めた。  橘さんがまた味噌汁をすすった。 「弁当? ……持ってきてって、どこに」 「もちろん、俺んとこ。あ、ごちそうさま」 「まさか警察署に? やだよ。よく考えてみな。俺がそんなの持ってくの、おかしいだろ?」 「大丈夫だよ。受付窓口には俺から言っとくし、きょうは内勤がほとんどで、ずっと署にいるから」  そうは言われても、やっぱり気が引ける。  流しに食器を置いた橘さんをじっと見上げた。 「ていうか、なんで俺の弁当? いままでそんなこと言ったことなかったじゃん」 「いや、まあ。それは、ほれ。あれだよ、あれ」  橘さんが人差し指を振る。 「みんなが店屋物の昼食の中で、手作り弁当をおもむろに出す。それを見つけただれかが言うんだ。おお、橘。きょうは弁当か。珍しいな」  そのセリフはブー課長さんのものらしい。橘さんが鼻を指で押し上げているから。  それからニヒルに笑って、眉を下げる。髪を掻き上げた。 「はい、まあ。僕はいいって言ったんですけど、持っていけってうるさくて」 「……」 「うちのかわいいヨメが」  なにが、かわいい「ヨメ」だ。勝手にやってろ。  俺はカランをひねって、後ろの橘さんに構わず洗い物を始めた。 「いわゆる、愛妻弁当ってやつですか。すみません、課長。見せつけちゃったみたいで……って、佑。ちゃんと聞いてる?」 「聞いてない」  泡だらけの手を動かしながら、俺は振り返った。 「と、に、か、く。そんな不純な動機じゃあ、ますます持ってく気が失せる」 「なんだかんだ聞いてるじゃない」 「なにぃ?」 「ごめんごめん。もーう。そんなに目を三角にしないでよ。せっかくの顔が台無しになるから」  と言って、橘さんは突然、目を細めた。どっちかというと、いやらしい感じに伸びていく。 「ゆーうちゃん」 「な、なんだよ」 「そんな手じゃあ、なんにもできないねえ」  俺の後ろにぴったりとくっついた橘さんは、シャツの中にいきなり手を突っ込んできた。  ヤらしい手つきをわざとさせて、肌の上を進んでいく。そして、一点をつまんだ。 「はっ、あっ、なにすんだよ!」  この泡だらけの手で、どう抵抗しようか考えているうちに、痛いくらいにそこをこねられた。  肩がはじけ、上体がのめっていく。その背中に覆い被さるようにして、橘さんが体重をかけてきた。 「朝から敏感だね……。悪い子だ」 「いやだ。やめろって、重いっ」  胸を執拗にいじっていた手が、ついに下へと向かう。スエットのゴムを越えた。 「もう、マジで……っ!」 「あら~、いやだわ奥さま。お宅のムスコさん、早起きな上にお元気で」 「くそ……っ」  俺はカッと目を見開き、泡なんて気にせず、右手を振り上げた。橘さんのわき腹めがけて肘鉄を食らわす。 「きゅうそねこをかむ!」 「ぐえっ」
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