ー下り坂

3/5
前へ
/55ページ
次へ
 短い呻きとともに、背中の重しがようやく遠のいた。橘さんは、わき腹を押さえながら四つん這いになり、苦悶の表情で痛みに耐えていた。  その背を尻にしき、俺は勝利の声を上げた。 「ざまあみろ!」  ……と、なんだかんだとあった朝だけども、結局はお弁当を届けることで収まった。  あの人の頭も相当沸いてるけど、俺のもかなりゆだってるみたいだ。  橘さんがどんなふうにデスクワークしているのか、覗き見してみたかったというのもある。こんな機会でもないと、一生お目にかかれそうもない。  早めに昼食をとり、俺はいそいそと家を出た。向こうで一緒に食べるのは、さすがにあれな気もする。  もちろん、一番の目的は、橘さんちのお掃除だ。うちでも使っているワックスシートを持参して、まずは警察署に向かった。  俺の住んでるところは、県内で、人口、面積ともに二番目に位置する町。  ナンバーツーとはいえど、全国的に存在感の薄い県だから、たかが知れている。それでも、警察署の周りはにぎやかで、都会色が強い。背の高いビルやマンションがあったり、高速道と一般道が交差していたりと、車も人もなかなか往来が激しい。  バスを降りたあと、警察署まで、ちょっとした並木道を歩く。すっかり葉桜になってしまった木がそよ風とわさわさ遊んでいる。 「刑事課の橘さんに用があるんですけど」  警察署に入って、受付窓口へ向かうと、あまり警察官ぽくないおじさんが座っていた。 「ああ、はいはい。まんなかゆうさんですね?」  俺の顔を見てにっこりと笑ったおじさんは、どうぞと、通路の奥へ手を伸ばした。 「まんなかじゃなくて、真中です」と、訂正しようと思ったけど、この人にたぶん非はない。橘さんだって本気で言ってるのかギャグなのか、俺はいまだにわからないんだ。  苦笑しながらおじさんに会釈して、階段を上がった。  前に警察署へ来たときは、こうして二階に連れていかれた気がする。  それにしても、どの課も入り口が開きっぱなし。  通りがてら覗くと、お昼時だっていうのに、スーツのみなさんが忙しそうに動き回っていた。  刑事課に着いて、ここも開きっぱなしの入り口から中を見渡す。だが、橘さんの姿はどこにもなかった。  というか、いくつかあるデスクには課長さんはおろか、定岡さんや晴海さんの姿もない。 「あら、真中くんじゃない」  そこへ、久しぶりに聞く声が飛んできた。  松宮さんだ。  松宮さんは、内科と心療内科を開業している医師で、警察の依頼で検案というのもやっているらしい。  薄いグレーのスーツに開襟シャツ。松宮さんの胸元は、相変わらずはちきれんばかりだ。  そこばかりに目がいかないように俺は気を配り、軽く頭を下げた。 「こんにちは」 「久しぶりね。元気だった?」 「はい」  俺の持っている紙袋に、松宮さんが視線を落とした。それから首を伸ばして、刑事課の中を覗いていた。 「もしかして橘くんに用?」 「はい、まあ」 「あら残念ね。課内のあの人のなさは、きっと会議中だからよ」 「会議……」  いつ終わるのかと、松宮さんに訊いてみたけど、首を傾げていた。  待っている時間もないし、俺は、橘さんのデスクへ弁当を置いていくことにした。 「ここよ」  松宮さんに教えてもらったそこは、意外とキレイだった。  ファイリングされた資料らしきものはいっぱいある。でも、パソコン周りはちゃんと片付いていた。  なんとなく、乱雑しているものと勝手に想像していたから、ちょっとウケた。 「……あら。それはなにかしら」  と、パソコンのとなりにあった紙袋を、松宮さんが指さした。  俺が弁当を入れてきたのと同じような、持ち手のあるやつ。表に付箋がついていた。 「佑へ、だって。真中くんあてみたいよ」 「はあ……」  もしかして、弁当のお返しだろうか。  俺は、松宮さんへちらっと目をやってから紙袋を覗いた。弁当はデスクに乗せ、個包装されているそれを一つ取ってみる。 「くさか……せんべい?」 「まあ。また送られてきたのね」  見るからに高級そうな紙のパッケージ。しかも、一枚がデカい。  紙袋の中には、それが結構な量、ごそっと入っていた。  でも、一番気になったのは、松宮さんのいまの言葉。俺は、ぱっと顔を上げた。 「また?」 「よく送られてくるのよ、その『そうか』せんべい。彼のご実家から。私も、このあいだおすそ分けをもらったわ」 「へえ。そうか」  べつに、ダジャレを言うつもりはなかった。思わぬ口のスベリに、松宮さんを見たけど、ぜんぜん気づいてないみたいだった。  ていうか、草加せんべいってどこのものだっけ?   それを考えつつ、違う胸の引っかかりを覚えた。
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!

573人が本棚に入れています
本棚に追加