ー下り坂

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 首をひねる。腕を組んで、もっとひねってみる。  けれど、いつまでもこうしているわけにもいかず、草加せんべいの紙袋を持って、俺は刑事課を出た。  ……橘さんがこの辺の人じゃないというのは、最初に会ったときからなんとなくわかっていた。  でも、あえて訊くことはしなかった。そのうち自然とそういう話になって、徐々に知れればいいと思っていた。  だから、そのこと自体はなんとも思わないんだけど、なにか腑に落ちない。  松宮さんの顔がよぎった。  そういえば、彼女の話も、橘さんの口から聞いたことがない。  自分が頭痛持ちだってことも。診察をいつ受けたとか、薬をもらって飲んでるとかの話しも一切ない。  最近はそういうことがないなら、それはそれでいい。  俺は頭を掻きむしった。  橘さんのマンションに着くと、オートロックのボタンを叩くように押した。  玄関で靴を脱ぎ、俺はまず寝室へ向かった。  たしか背の高い本棚があって、ぶ厚い辞書やら地図やらが並んでいるのを思い出したからだ。  草加せんべいは、埼玉県草加市のお菓子で、全国的にもかなり有名らしい。  その草加市は、東京の、とくに北のほうのベッドタウンで、人口約二十一万だそうだ。  これを読む限り、ここより断然都会な気がする。  俺は辞書をしまい、今度は埼玉県の地図を探してみた。  下段の広いところに、さまざまな地域のものが並んでいる。  地図だけじゃない。新幹線や飛行機、どこかのローカル線の時刻表まである。  ……鉄道オタク?  フローリングにあぐらをかいて、また首をひねった。 「まあ、いいや。それはあとで訊こう」  埼玉と大きく書いてある地図を取った。わりとすぐに草加市を見つけられて、俺ははしゃいだけど、そうじゃない。こことの位置関係を調べようと思ったんだ。  でも、あっちこっちページをめくっても、その地域のこまかい地図しかない。なんだかワケわかんなくなって、俺はいつしか、紙の上で迷子になっていた。 「んだよ。学校んときの地図帳なら、イッパツなのにさ」  地図を投げ、ベッドに視線を移す。  ふと、橘さんと松宮さんのツーショットが思い浮かんだ。  頭の中の映像は、俺を置いてきぼりにして、男女となる二人を流し始める。このベッドで重なり合い、橘さんは、俺に囁いたはずの言葉を熱く吐く。  橘さんが松宮さんの話をしないのは、たぶん、そういうことがあったからなんだと思う。  過去に二人がつき合っていたとしても、べつに構わない。どんな女性遍歴があったって、それがいまの橘さんを構成しているんだから、受け入れるべきことなんだ。  俺は勢いよく立ち上がった。  さっきまで腰かけていたところ以外は乱れていないベッドをまじまじと見た。 「なんでそんなことばっかり考えるんだよ」  二人が絡み合うシーンを繰り返し想像して、気分が悪くなってきた。  ちょっと前は、橘さんがどんなふうに女の子を抱くのか妄想してマスかいてた俺なのに、いまはとにかく気持ちが悪い。  逃げるように寝室を出て、リビングのドアを開けた。  ……まさか、まだなにかしらの関係が続いてるってことはないよな。  俺たちは、世間一般から見ても、きちんとした形の関係じゃない。……形には、できない。  そもそも橘さんは、俺のことをどのくらい思ってくれているのだろうか。  ……違う。  あの人の思いは、ついさっきまではっきりしていた。急にあやふやになってしまったんだ。  そのときだった。携帯電話の着信音がリビングから鳴り響いた。  ソファーセットの向こうにあるローボード。その上に乗っているテレビのとなりに、コンセントに繋がったままの携帯電話がある。  あれは、橘さんが個人で契約してるやつだ。いわゆるプライベート用の携帯電話。  橘さんは携帯を二台持っているけれど、一台は、必ずああいうふうにどこかへ忘れていく。  たぶん、出勤する前にここへ寄ったんだと思う。そのときに充電したまま、忘れていったんだ。  着信音が途切れた。  安堵というか、前ぶれもなく走った緊張感に解放され、思わずため息が出た。  しかし、また着信音が鳴る。たまらず、俺は携帯電話の前に立った。  ……次。次に切れたら、これを取るのはやめよう。  そう思いながら手を伸ばしているさなかも、携帯は鳴りっぱなしだった。
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