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「くそっ」
ついに充電器から外し、ゆっくりと開く。
“山岸真由子”
画面に出ている名前を見て、俺は息を呑んだ。
女の人だ。
でも、松宮さんじゃない。
それにしても長いコール。こうしているあいだもまだ鳴っている。
もう一度ためらったけど、俺は通話ボタンを押した。
「橘ぁ? ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ。あたしを待たせるなんて、どういう神経してんの」
第一声から、ものすごい剣幕だった。通話口を下げたのに、続く言葉も十分に聞こえた。
「──黙ってないで、なんとか言ったらどうなの!」
出るべきか切るべきか。ボタンのところで指をうろうろさせていたら、背後で物音がした。
振り返ったとき、キッチンのドアが開いた。
姿を現した橘さんは、肩で息をしている。自慢の髪を掻き上げ、俺の手にある携帯を見た。
「佑……」
「あ、あの。ごめんっ」
橘さんの表情が、めちゃくちゃ険しくなった。
いままでで一番かもしれない。
どんなにからかっても、むきになることのなかった橘さんだから、俺はどっと冷や汗をかいた。
でも、冷静に考えてみて、勝手に携帯をいじられたり、電話に出られたりしたら、そういう表情にもなると思う。
橘さんは、携帯電話を俺から奪っていくと、わざわざベランダへ出て話し始めた。
罪悪感とは違うものが胸に刺さってきた。
深呼吸をして、なんとか自分を抑える。
ここで感情的になったら負けだ。感情的になって負けたら、たぶんすべてがぶっ壊れる。
「ごめん、佑」
携帯を畳みながら戻ってきた橘さんは、いきなりそう謝った。いつもの顔。だから、余計に不審に思った。
「……なんで、あんたが謝るんだよ」
「温泉、ダメになった」
俺は、橘さんの手のほうに、まだ頭を持っていかれていて、事情がよく飲み込めなかった。
「週末の連休……仕事になった」
肩すかしを食らったみたいに、俺は言い返すタイミングも失った。
自分でもびっくりするくらい冷静に、「仕事なら仕方ないね」と言っていた。
「じゃあ、帰る」
「佑」
くるっと背を向けたら、肩を掴まれた。
「なに?」
「……いや」
見上げると、俺が初めて目にするような神妙な面持ちをしていた。手を引っ込め、橘さんは首を横に振る。
俺は意地悪く言う。
「ほらね。連休なんて、やっぱ無理だったじゃん」
いつの間にか、睨むように橘さんを見ていた。
感情的になりたくなかったから、黙って行かせてほしかった。
電話の相手のことだってそうだ。どういう関係の人なのか訊いても、どうせ答えてはくれない。
食い下がれば下がるほど、俺はカワイソウなやつになるんだから、いまは放っておいてほしいと思った。
「佑」
「さようなら」
意味深長に言ってみても、きっとあの人には効かない。なにごともなかった顔をして、またうちへやってくる。
橘さんの部屋を出ると、俺はすぐにうなだれた。
……まあ。こんなことで終わりとか、ありえないんだけどさ。
ああいう人だって承知のうえで好きになったんだし、警察官だから、一から十まで話せないことも知っている。
マンションのエントランスを出たところで、俺はもう一段、首を垂れた。かなり日の傾いた路地を行く。
人気の少ない裏通り。後ろになにかの気配を感じて、とっさに振り返った。
橘さんを期待していたわけじゃない。でも、そうだといいなという思いもあった。
だから、そこに立つ姿を確認した俺は、なにを考えるよりも早くがっかりした。つばのあるキャップを目深に被っている男は、橘さんじゃなかった。
「……違う」
と言ったのは、目を丸くしたその男。
なにが「違う」のか知らないけど、人違いだったなら、こっちのセリフだ。
男をシカトして、俺はまた歩き始めた。その耳に突き刺さってきた、低い怒声。
思わず立ち止まり、声のしたほうを見る。建物のあいだの狭い通路の向こうに、もう一人いた。だが、逆光でシルエットしか見えない。
いまの怒声は俺に向かってのことかと眉をひそめたら、後ろからいきなり口を塞がれた。抱え込まれるように体を拘束され、狭い通路へと引きずられた。
なにがなんだかわからなくて、抵抗もままならないうちに、べつの男に両足を持たれた。
通路の切れ間に、ドアが開いている車が停まっている。
なにをされるのかようやくわかって、俺は闇雲に抵抗した。口にある手に噛みつき、腕と足をがむしゃらに動かす。
なんの冗談か知らねえけど、笑い事ですまされるレベルじゃねえ。
そう思うと同時に、ものすごい鈍痛が腹にきた。ナカのものをすべて吐きそうな衝撃だった。
抗う気が失せた途端、力も抜ける。
救いの言葉を口の端に残し、俺はまぶたを閉じた。
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