-歩きスマホ-

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-歩きスマホ-

 ヒロトさん(27歳仮名)のお話。 彼は二年前まで東京で営業職をしていた。 大多数の人間が聞けば頷く位には名の知れた企業に勤め、大学の同期の中でも年収は高い部類であった。 仕立ての良いスーツを身に纏い、腕にはハイブランドの時計。 控えめに言っても勝ち組のレールの上を走り、自身もそれを実感していたせいか、社会人四年目にして町工場の平社員である父親に対して蔑視を送る有様になっていたという。 が、それなりの生活を送るには相応の対価も必要であり、会社からは賃金に見合った働き方を求められる。与えられた時間以上の仕事量を割り振られ、就業時間外も”つき合い”という名の時間と精神の浪費行為に費やされてしまう。 やがて彼の心は平穏を保つことが無くなり、常に苛立ちと不満に逆立つどす黒い塊を抱え、何かの糸が切れる寸前まで追い込まれる事になる。  切っ掛けはほんの些細な偶然だった。 いつものように心身共に疲れ果てた彼が最寄り駅で下車し歩いていると、前から来た若い女性の肘が腕にぶつかった。 いつもなら彼自身も気付かない位の衝撃だったが、感情の置き所が悪かったのだろう、その時は瞬間的にかなりの勢いで𠮟責してしまった。 直ぐに迂闊な行為に及んでしまった事に慌て謝罪をしようとしたのだが、当の女性は怯え切った視線を彼におくりながら何度も頭を下げて許しを乞うた。 その怯え切った表情を視線に捉えた瞬間、彼の心は例えようのない程の優越感に満たされ、どす黒い塊が解けてゆくのを感じた。 以来、ホームや街中で若い女性や老人を見かけると自ら近づき肩をぶつけ、時には転倒させ相手次第では大声で罵るという卑劣極まりない行為を繰り返すことになる。 特に歩きスマホの女性は、彼にとって標的にしやすい存在であった。 意識は手元に集中しており当たりに行っても気付かれず、危ないだろうと注意も出来る。あわよくばスマホを落として壊れようものなら更に満足感が得られるのだ。 その日、仕事が遅くなり最寄り駅に着いたのは夜の十時過ぎだった。疲れ果てた彼の前に絶好の標的になる女性が現れた。 手元のスマホに集中しながら、おぼつかない足取りで電車に向かって来ている。 制服を着ているので学生であろう。長い髪が下を向いた顔を覆っているので人相までは確認できなかったが、彼は反射的に(こんな遅い時間まで遊び歩てるなんてロク奴じゃないな、顔だって不細工なんだろうぜ)そう思うと、体を女学生に向けた。 向こうは全くこちらに気づいていない、完全にスマホに集中している。 こっちが上司にペコペコしている間、あの女はバカみたいに遊びまわってやがったのか。 仕事の鬱憤が溜まっていたのでスマホを叩き落としてやろうと更に歩を早める。 あと一歩。 思い切りぶつけようと左肩に力を入れる。 が、その肩は空を切った。 当てる場を失っ身体はバランスを崩し、思わずたたらを踏んでしまった。 すり抜けたよう感じたが、そんなはずも無い。 寸前で避けられたと思い彼が振り向くと、彼女はさっきと同じように手元のスマホに集中しながら歩いている。 速度もおぼつかない足取りも変わらないまま、黄色い点字ブロックを超え、白線も超え。 ホームから転落した。 (えっ?落ちたっ?) 彼は驚き慌ててホームの端まで駆け寄ったが、線路上に人の姿は無かった。どんなに見回してもホームの下には人影は確認できず、周りの人達も転落した女生徒に気付いていない様で何事も無かったようにしている。 正に狐に摘ままれたような出来事に彼は唖然とするしかなかった。   「たぶん彼女はこの世の物じゃなかったんでしょうね。証拠って訳じゃないんですけど、ほら、こっちの腕あれから全く動かないんですよ。医者に行っても原因不明だって言われるし”あっち”に持ってかれちゃったのかなって」 自嘲気味に笑いながら、彼は三角巾で吊られた左腕を触らせてくれたが、その手は死人のように真っ青で冷たく、およそ人らしい温もりは感じられなかった。 あの出来事の後、麻痺した腕のせいで仕事が続けられなくなり、実家で肩身の狭い思いをしながら半分引き籠りのように暮らしていると話してくれた。
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