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-山にいるものー
ユウキさん(46歳 仮名)
20年ほど前の話。
まだソロキャンプなんていう言葉が流行るずっと前。
彼は週末になるとオフロードバイクで山奥まで行き、そこでテントを張って過ごし都会の垢を自然の中で落としていた。
奇麗で設備が整った所謂キャンプ場などは今に比べるとまだまだ少なく、多少なりとも整地された場所には、必然的に家族連れや無口な男達が集まった。
彼はそんなむさ苦しい状態に嫌気がさしていた。
経験を重ね、こなれて来るとバイクの機動力を生かし、殆ど人が足を踏み入れない山奥の方まで行くようになる。
山中でも、よく探せば平坦な場所は見つけられた。
その昔に山の中で仕事をしていた者たちが残した場所だったり、自然にできた平地だったりだ。
一度大型の鹿に遭遇した経験から、獣道や巣の痕跡がある所だけは避けるようにする位には慎重にもなっていたし、何度も行くようになるとお気に入りの山も出来るようになる。
彼にとってのそれは山梨にあった。
その日も定番になった場所で焚火を眺め、ふと顔を上げると周りはすっかり闇に飲まれていた。
焚火には不思議な魅力があり、じっと見つめているといつの間にか時間間隔が麻痺してしまう。
気が付けば自分だけが闇の中に取り残されているといった感覚を、彼は幾度もなく経験していし、それが心地良くもなっていたのだった。
更に夜も更け、パチパチとなる音も小さくなり火の勢いも心細くなり始め、そろそろテントに潜り込もうと思った時。
「…り~」
声が聞こえた気がした。
夜更けの山中で人に声を掛けられるはずもなく、風の音か獣の鳴き声がそう聞こえたのだと思った。
「…とり~」
また聞こえた。
さっきよりも人の声に近いように感じ、身体が無意識に硬くなる。
「ひとり~」
三度目は彼が思うより近くで聞こえたが、声の主は焚火の明かりが届くギリギリの闇の中に立っているようだった。
「ひとり~」
声の主は更に繰り返してきた。
「えっと、どちら様ですか?道に迷ったんですか?」
自分が置かれている異常な事態に身構えながらも、務めて冷静に答えた。
「ひとり~」
声の主は質問に答えず、同じ言葉を繰り返す。
本能がこれは良くないものだと告げ、次の行動を間違えないよう脳内をフル回転させた。
「ひとり~」
声の主は同じ言葉を繰り返し続けているが話し方に抑揚がなく、一人だという事をこちらに質問しているのか己で確認しているのかが分かりにくい。
何となく数の概念を持っているのではなく、人が単体でいる状態を”ひとり”と理解しているだけのように感じた。
その考えに根拠はなかったが、妙な確信があった。
そうこうしている内に焚火が少しずつ小さくなり、闇の範囲が拡がってくる。
「ひとり~」
また近くなった。
声の主は闇に紛れながらこちらへ迫ってきている。
「いや、二人だよ」
一人と答えては危ないと思った彼は咄嗟に嘘をついた。
「なあ、誰か来たみたいだぞ」
空のテントに声を掛けて仲間がいるフリをし、同時に焚火に薪をくべる。
熟練の動作で火吹き棒を使うと、たちまち焚火の勢いは復活して彼のテリトリーを拡げながら闇を押し返し始めた。
火の勢いに安堵した彼は懐中電灯を手にすると声の方へ明かりを放ち、辺り一面を照らしたがどこを見ても何もいなかった。
結局、恐怖が拭いきれないまま火を絶やすことなく朝を迎えると、一目散に街へ帰りその後は一切山へ入ることを止めてしまった。
ただ、あの闇の中にほんの一瞬だけ毛むくじゃらの足のようなものが視界の隅に入ったのは気のせいでは無いと、20年経った今でも彼は確信しているらしい。
この話を教えてもらった時に、何だかどこかで聞いたことがあるような話しだねと、少し意地悪に言ってみたところ。
「そりゃそうだろ、アレは実際山の中に居るんだからさ。他にも似たような経験をした奴がいたって全然不思議じゃないよ」
と、さも当たり前のように話していたのが実に印象的だった。
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