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町の中心部に入ったところで、伊佐木さんと別れた。菫を片手で弄ぶ伊佐木さんに私は軽く一礼すると、彼とは別方向に駅舎への道を進む。
駅舎の前は広場になっている。芝に花壇や置き石を備えただけのあっさりしたものだが、紙芝居か何かやっているのだろうか。遠目でも人が賑わっているのが分かった。
広場に差しかかる手前に建つのが町の診療所だ。玄関横に佇む大きな木瓜の木が印象的な木造二階のそこでは、去年からお爺さん先生に代わり、帝都から来たという若い先生が駐在して働いている。
大輪の花が咲く木瓜の横を過ぎ、玄関を入る。入ってすぐ、一段高く敷かれた板間は小さな待合室になっていて、その奥が診察室。診察室の戸は閉まっていて、すりガラスの向こうに黒い人影が見えた。
草履を脱いで板間に上がり、脱いだものは靴棚に揃えて置く。待合室では年端もいかない子供が二人、床に座り込んであやとりで遊んでいた。
前の患者がいるようだから、待合室の木椅子に掛けて待つことにする。子供たちが見える位置に座ると、男の子と女の子はどちらもそのくりっとした瞳でこちらを見たが、すぐに目を逸らして手遊びに戻る。顔立ちが似ているから、兄妹だろうか。
『二人あやとり』をしているようだが、どうやらつまずくところがあるらしい。年上に見える男の子の声が大きくなる。
「そこじゃない! こっち!」
「兄! こっちってどこ!」
高い声で荒げ返す女の子に、男の子は「ここ!」と目と口で懸命に訴えるが、あれでは分からない。とはいえ、糸を張る彼も両手がふさがっているのだ。私は腰を上げた。
「ほら、ここだ。ここに人差し指を入れるんだよ」
二人の前にしゃがみ、指を差す。糸と糸の隙間をちょん、とつつくと、男の子が「そうそう!」と顔を綻ばせた。女の子がその隙間と、他のいくつかに指を差し入れる。そうして男の子の手から糸が離れれば、もたつきながらも『田んぼ』は完成した。
「ありがとうー!」
「ありがとお姉ちゃん!」
「いいや」
顔を上げて喜ぶ兄妹にこちらも笑顔になる。久しく触っていなかったが、覚えているものだな、と少しだけ感慨にふけっていると、金属の音を立てて診察室の扉が開いた。温い待合の空気に清涼な風が入ってくる。
「お待たせー二人とも! あらあら、すみませんね。見てもらっちゃって」
「いいえ。あんまり楽しそうだったもので、つい」
診察室から出てきた母親らしい女性に頭を下げられたので、こちらもお辞儀を返す。髪を低い場所で結った女性は私とさほど変わらない歳に見える。私の前にいた兄妹はたっと立ち上がると、自身らの母親にぴったり付き添った。
「じゃーね、お姉ちゃん!」
「ああ。じゃあな」
はにかんで手を振る女の子に手を振り返す。その傍らで、母親と先生が挨拶をする。
「では水橋先生、ありがとうございました」
「いーえ、お大事にー」
丁寧に礼をする母親にゆるく微笑むのが、去年この町に来た若い先生だ。若いとは言っても大学を出ているのだから、当然年上。女性でもあまり見ないくらいの長髪を括っているが、艶やかで清潔感がある。むしろその髪型が、本人の柔らかで中性的な雰囲気を手伝っているようにも見えた。
「しずかせんせー、さようなら!」
「さようならー」
水橋先生は幼い兄妹の挨拶にも穏やかな表情で返しながら、彼女らを見送る。玄関の開き戸が閉まると、子供特有の賑やかさが遠のいていく。静けさが診療所を覆った。
「石月さん、お待たせ」
先生はしゃがんでいた私に視線を移す。片手の一輪にも目を留めたので「大丈夫ですか」と聞けば、
「すぐ終わるから平気平気。……では、次の方どうぞー」
と砕けた調子に近い柔らかさで、私を診察室へと誘った。
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