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耳を流れるせせらぎに、辺りを見渡す。道行く人の影から、伊佐木さんがひょいと顔を出した。
晴一はすぐさま姿勢を正し、敬礼の形をつくる。二人とも交通課か。伊佐木さんは晴一の直属の上司にあたるのだと、このとき初めて納得した。
かしこまる晴一を、着物姿の伊佐木さんは「非番だから」と優しく手で制す。そうして彼は鈴生屋を見やる私たち二人に加わると、冷静に言葉を紡いだ。
「証拠はなさそうだから、話だけだろうね」
「人が亡くなってたんですね、火事」
刑事課が動いている理由を私が言えば、隣の晴一が目を丸く見開いた。
「知ってたんですか、沙耶子さん」
「ああ。さっき診療所で、先生から聞いた」
「まだ上から口止めされてるのに……」
晴一はぱちくりと目を瞬かせる。長く揃った睫毛が数回上下する。
「まったく。恐れ入るね、水橋先生は」
ふ、と小さく息を漏らしながら伊佐木さんが言った。
「じゃあ私は寄っただけだから。用事があるから失礼するね」
「デートですか」
上下関係はあれど、結構仲が良いらしい。どこか面白がる様子で晴一が軽口を叩くと、伊佐木さんはたしなめるように後輩を見た。
「晴一。たとえそうだとしても、沙耶子ちゃんの前で言うわけないだろう?」
小川のように、柔く淀みなく。伊佐木さんは私に向き直ると、菫を摘まんだ私の手をそっと両手で包む。
その手は、母や弟よりも大きい。父よりは小さいかもしれないが漁師特有の手荒れはなく、節くれだっていながらも滑らかな感触が印象的だった。男の人の手だった。
「私の一等好きな花。……じゃあね」
こちらを見下ろす伊佐木さんの目は色っぽく、深い。ここに来る前、花弁に唇を寄せたときと一緒のものだ。
私と晴一が何も言えず立ち尽くしている間に、伊佐木さんはさっさと通りの向こうに行ってしまった。
しばらく呆けた後。
「さすがだ……」
「ちょっと、変わってるよな」
ようやく紡いでくれた晴一の言葉に適当に合わせてみる。先ほどの伊佐木さんは、既に自分の菫すみれを持っていなかった。私はこうされるのは初めてだが、伊佐木さんなら花束を抱えて町で一輪一輪振り撒いても違和感はない――それどころか、絵になりそうだと思った。
「沙耶子さん、その娘さん方が亡くなっている話ですが」
通りの先から視線を戻せば、晴一がこちらを見ていた。真面目な顔に改まっている。
「そういうことなので、大丈夫ですよ。竜ならあり得ないって、お兄さんもよく分かっているでしょうから」
「……ああ、そうだよな」
家族なのだから、竜の人となりはよく分かっているはずだ。「ありがとう」と晴一を見ると、彼は私に向かって、眉根を少しだけ下げた。慰める、元気付けるというよりは、どこか気を遣うような顔だった。
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