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港町編【3】甘く綾なす
次の日。珍しく竜は朝早くに私の家を訪れた。朝仕事を終え朝食も済ませた頃だ。そのとき母と私は水仕事をしていて、弟は学校の準備、父は家を出た後だった。
「御馳走様でした。美味しかったです」
いつもと変わらない笑顔で出されたのは弁当箱と包み布。昨日、晴一と別れる前に「竜に会えたら渡して欲しい」と頼んでいたのだ。竜の家にも顔が知れた彼なら出来るかもしれないと思ったからで、包みを聞かれたついでに甘えてしまった。
「いや。家にいるならもっと良いもの食べられただろうが……」
「まさか。これ以上のご馳走なんてありませんから」
竹編みの弁当箱は空だと分かる重さで、薄黄の包み布は丁寧にアイロンがかけられていた。パリッとした状態のこれを見るのは、買ったとき以来だ。
弁当箱はピカピカに拭かれているに違いない。かえって悪いことをしたな、と私は前より綺麗になって戻ってきた二つを見下ろした。
――景色が急速に流れていく。
車両の通路を挟んで正面の窓を、焦茶の木枠が縁取っている。それを額縁とするならば、中に映る景色は水彩画のように淡く美しい。
水が張った田園は眩しくはない日を受け、時折細かに光り輝く。その先にある麓の集落にはとっぷりと霞がかかり、陽気にたゆたう。その温かみのある白は、彩色豊かな花花とはまた違う、春の色。
ガタン、ガタンと揺れる汽車の車内で、今朝の続きを思い出す。
「今日一日、沙耶子さんをお借りさせてもらえませんか」
母の前で、竜はそのように話した。
「おうちのお仕事のことは承知しているのですが、」
と、いつも以上に丁寧に頭を下げる竜に、母は少し驚いた顔をしながらも、「ゆっくり行ってらっしゃい」と温かく送り出してくれた。戸口で学帽を被る早太は、すごく嬉しそうな顔をしていた。
昨日のことを聞けば、竜は「なんてことはありませんでした」とあっけらかんに言う。知らないことには答えようがないのだから、実際にそうだったのだろう。
家から謹慎を言い渡されなかったのも、さして深刻な聴取ではなかったからかもしれない。ただ、お兄さんについて触れようとすると、竜の顔が少し曇ったのも事実だった。
「沙耶子さん。向こう町は久し振りですか?」
「そうだな。前に行ったのがいつかも忘れた」
田んぼから飛び立っていくケリを、目で追いながら返事をする。出掛ける前に着直したのは手持ちで一番良い着物だ。家の外で待っていた竜はこれを見て、「今日は何でも良かったんですけどね」と笑っていた。
この汽車の座席は、車両の両横に背を付ける形で並んでいる。座席は半分ほど埋まっていて、大きな町に向かうからか、みな洒落っ気がある。
袴を履いた中年男性や、上質な着物を纏う婦人。車両の奥で赤子をあやす女性も小綺麗な着物を着て、帯を変わり風に結んでいた。
隣に座る竜をちらりと見やる。みなお洒落だといっても、洋装は彼だけだ。すっきりとした体躯をさらに引き締める濡羽色のフロックコート。潔い黒が私だけでなく、車内全員の視線を集めている。
いつもは二人か、加えても私の家族か晴一ということがほとんどだから、あまり意識していなかった。やはり竜は目立つ。それも不思議と良い意味で。
普通は見慣れない洋装だが、着られている感じが全くしない、堂々とした態度。彼だけが別の色の世界に佇んでいるようにすら見える。これなら確かに、私が何を着ていても一緒だろう。
「沙耶子さん。……沙耶子さん?」
「……悪い。ぼんやりしていた」
視線が合ったのにも気付かなかった。こういうの、何と言うのだったか。
「着いたらすぐに二軒の店を回りますよ」
竜がふわりと笑う。春霞のような、ウトウトしたくなるような笑みだった。中々凛々しい顔付きなのに、つくる表情は甘いんだよなと、竜を見つめる私に彼は続ける。
「今日は沙耶子さんに目一杯甘えさせて頂きますから、覚悟しておいて下さいね」
「は……?」
甘えるって、何をさせられるのだ。私が思わず身構えると、竜はまた嬉しそうに目を細め、周りの空気を春色に霞ませた。
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