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手製の布袋から本を残して切符だけを二人に見せると、守谷さんが身を乗り出して声を大きくする。インクによるものだろうか、黒くくすんだ手で彼が指し示したのは、映画の題でなく活動弁士(※)の名の方だった。
「人気ですけど、まだ行ったことありませんね」
「地元だと、美琴さんが追っかけてたらしいな」
彼女が働く美容院には、今でも華鳥朱が仕事したという映画のポスターが至る場所に貼られている。
「行った方が良いですよ。今のうち」
切符の印字に視線を落としたまま、守谷さんは薄く笑った。その顔には何かを惜しむような哀愁がある。
「彼は良い。どうせ語りきれないから端折りますが、世の活動弁士の中では彼が一番です」
――ほどなくして、蕎麦屋の息子さんが顔を見せた。「毎度ありがとうございます!」挨拶の元気がよい、清々しい子だ。
木製のおかもちの中から出されたのは湯気の立ったかけ蕎麦の椀が三つ。中学校の生徒でもある息子さんはちゃきちゃきとそれらを廊下に置くと、代金を受け取って帰っていった。
折角こうなったのだから、食べるところまで一緒にどうか。竜が申し出ると、守谷さんは手を前にかざして、にこやかに言った。
「新婚のご夫妻の間に入るのもうまくないでしょう」
「新婚って……もう三年にもなるんだけどな」
「奥方様。夫婦は子どもが生まれるまで新婚ともいいますよ。……なんて、子どもはもとより結婚の予定すらない自分が言うことではありませんね」
丁寧な返答に足されたのは、くっく、と自嘲を含ませた笑いだった。
「では奥方様、一緒に出前を取っていただきありがとうございました。竜治くんもおやすみ」
守谷さんは自分の椀だけ取り上げると、至極恭しいお辞儀をして身を翻した。彼が玄関戸を開けると冬の風が吹き抜け、暗い夜道が覗いた。いつの間にか、日はすっかり沈んでいたようだ。
「食べようか。せっかくの蕎麦が伸びてしまうぞ」
「……あ。そうですね」
守谷さんがいなくなった後、座ったまま動かない竜にそっと気を配ると、彼は焦点の合わない目で力なく笑った。
下手な慰めはしない方がよい。それでも、廊下を付いてくる彼があまりにも心地悪そうで、手の平は萎んでしまっていて、だから私は口を開いた。
「他意はないんだから、気にしなければいいんだよ」
これくらいのこと、いつだって言われるのだから。
子どもの話題なんて日常にありふれている。何でもない、何でもないからと、これは胸中で呟いた。
頭を撫でてやれない分、この日の蕎麦はいつもより美味しそうに啜った。
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