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私たちは登った。
電気エレベータでなく石の階段で、十二階の高さを脚でも味わった。途中、土産屋で休憩を挟もうという竜の甘言にはかなり助かったが、それでも体が軋む。明日は起床が辛いだろうし、階段で女学生二人組に抜かれたときは竜ともども心が萎えそうになった。
しかしながら、山を登った先の頂がそうであるように、浅草人が誇る十二階が備えるのもまた圧巻の眺望だった。
「四方に見渡せる景色って、考えたことなかったな……」
ぐるりと視線を巡らせて、自分を囲う光景に息を呑んだ。
荒川が見える。銀座の街が、築地の一帯が、帝都のあらゆるものが見える。彼方には関東を囲う山々。ひと際目を惹く凛とそそり立った山頂の主は、訊けば富士だという。
手すりまで出て、風に持っていかれないよう帽子を片手で押さえた。上気した頬を撫でる外気が心地良い。裾口の広い白毛のロングコートがふわりと膨らんだが、今は全く気にならない。
「竜――竜っ! 綺麗だな!」
「――ええ、本当に。絶景ですね」
想像していたより返事が遠い。不思議に思って後ろを振り返ると、竜は手すりよりもずっと離れたところからこちらを眺めていた。
「お美しい。富士を背景に沙耶子さんを拝めるなんて、俺は日の本一の果報者です。ありがとうございます」
「人を縁起物みたいに言うなよ」
「そんなつもりじゃないんですけど。でも確かにそうかもしれない、沙耶子さんに出会ってから俺の人生は良いことばかり」
コツコツと革靴で板木を鳴らし、私の隣に寄り添った竜の表情は晴れやかだ。
「初めて会った時のこと、覚えてますか? 沙耶子さんは葉太に弁当を届けるために小学校に行ったんですよね」
そう。授業中だったから空いている先生に預けようと思って職員室にお邪魔したら、たまたま竜がいたのだ。
当時中学生だった彼はまた違う用事で母校に来ていて、服装は黒の詰襟制服。あのときは私の周囲に中学進学する人なんていなかったから、その堅い風采が珍しいと思った。ただそれだけだったのだけれど。
「それからひと夏ずっと私を付け狙った物好きのことなんて、忘れたよ」
すぐに蘇る、土と潮の混じった匂い。故郷の思い出。
当時は足元の田畑ばかり見つめていた私が、今は花の都を見下ろしている。
一望した帝都は日の光をよく照り返した。富士はじめ遠くにそびえる山々は冬空の薄い色彩に映え、故郷のそれとは全く違う形を成している。越後の山脈だって、反対の方角から望めば別の稜線を描く。
自然や歴史が違えば、住む人々の気風も違う。違って見える。そしてそこに上下はなく、みな違うからこそ尊い。
知らない鳥が風を切って鳴いている、その目線は同じ。
出逢ってから六年が経った。年下の甘えたに付き合っていたら、こんな景色の前に立たされるとは。人生は思うよりも奇天烈で、物語めいているらしい。
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