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港町編【2】翳る春色
次の日。昼頃になっても竜は顔を出さなかった。
今日は午後に駅舎近くの診療所へ行かなければならない。そのことは昨日竜にも伝えているし、相手方がいることだからここで待っているわけにもいかない。
私は白梅の下で一人分の白むすびをささっと食べてしまうと、半分は残したまま弁当箱をしまい、立ち上がった。
竜には途中で会えるかもしれないし、すれ違っても一日会えないということはないだろう。いや、毎日会わなければいけないという理由自体、ないのだが。
町の中心部まで行くから、今日の着物はいつもの野良着よりは見られるものを選んできた。だから布継ぎはないし、それほど汚くもない。午前もできるだけ土が付かないように気を遣って作業した。固く括っていた髪を解き、きちっと畳んだ手拭いを懐に仕舞う。
気持ち普段より身綺麗にして町道を歩いていると、背後から名前を呼ばれた。
「石月さん家の、沙耶子ちゃん」
小川のせせらぎのような、爽やかな声。引かれるように立ち止まれば、町の派出所に勤める伊佐木さんがこちらに歩いて来ていた。
「こんにちは。今日は非番ですか?」
「昨日は夜勤だったからね。朝方まで働いてたよ」
着物姿の伊佐木さんは私に追い付くと「ふぁ」と小さく欠伸をし、やりきったような顔で空を見上げた。淡い水色の空は山の向こうまで続いていて、広く澄み渡っている。どちらともなく自然に歩みを再開すると、伊佐木さんは私を横目で見た。
「今日は鈴生さん家の次男坊と一緒じゃないんだね」
「いつも一緒にいるわけじゃないです」
そう言った後で嘘かもしれないと思い、恥ずかしくなって視線を逸らす。その様子を流してくれた伊佐木さんは続ける。
「まあ昨晩の感じじゃあ、彼も家から出してもらえないかもね」
「……何かあったんですか?」
「おや、まだ聞いてないか。また火事があったんだよ。駅舎から山の方に外れた、掘っ建て小屋で」
何でもない風が寒く感じる。昨晩の変に明るく感じた夜空を思い出し、あれは火事だったのかと腑に落とす。
それと竜に、何の関係があるのだろう。思わず表情を強張らせると、伊佐木さんは前髪をかきあげながら、少しだけ逡巡するような顔を見せた。
「夜に町を歩く彼の姿を同僚が見たそうだからね。今日、刑事課の人間が話を聞きに行くとかなんとか、ヒソヒソ話していたよ」
火事なのに、刑事課――?
どういうことか聞きたいと口を開こうとしたが、伊佐木さんは私の方を見ていなかった。彼の視線が向く先は私とは反対側の、線路沿いの道端。
「綺麗だね」
群れをつくって咲いていたのは菫だった。緑に茂った円い葉の上を、いくつもの紫色の花が舞う。伊佐木さんは少しだけ道を外れると、鮮やかに咲いたそれに手を伸ばす。
プツリ、プツリ。そんな音が聞こえてきそうな仕草で彼は二本の茎を手折ると、うちの一本を私に差し出した。
「……ありがとうございます」
「夜の一人歩きは危ないから、気を付けてね」
「特に綺麗な女の子の夜歩きなんて、見てられないから」と、伊佐木さんは私を見つめながらそう言って、手元の潤う花弁にそっと口付けた。
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