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待合室と同じ広さの診察室に入ると、消毒液の匂いが鼻をかすめた。先生に促されるまま、つるりとした合皮の椅子に腰掛ける。左方の壁には黒い額縁が掛かっていて、医師免許証の写しが入れられている。
『水橋 閑』。先生の名前が筆字で書かれていた。額縁の下にはそれほど高くない木棚が置かれ、並んだ瓶の影が乳白色のガラス越しに見える。木棚の上には無機質な防災無線がどかりと陣取っていた。
「その菫は自分で? それとも竜治くんから?」
先生には竜の話をしたことがないのに、知っているのか。
「いえ、伊佐木さんです。交通巡査の」
「べっぴんさんはモテるねー」
「ご冗談を」
軽い会話を交わしながら、私の前に座る先生が器具や試験管を揃えていく。白衣の袖から伸びる先生の両手はカーテンを通した日光を受け、実際よりも淡く黄色付いていた。
器具が準備される机側の窓にはクリーム色のカーテンが、端から端までしっかりと閉められている。一方で窓の方は開いているようで、部屋に新しい空気が入るとカーテンの下端がわずかに浮き上がった。今日の外気はまた一段と暖かい。
「じゃあ机の上に腕を上げて、袖をまくって」
言われるまま、机に右腕をのせる。二の腕の半分ほどまでまくり上げると、「そこまででいいよー」と声がかかる。自分の腕を見下ろすと、肘の内側に青い血管が数本、透けていた。
先生は私の二の腕をきつくゴム紐で縛ると、じっと腕を見下ろしながら口を開く。
「親指握ってくれるかな」
「はい」
「うん。――キレイな静脈だね?」
先生の指の腹が私の青をなぞる。その指の感触が見た目より少し乾いているのは、消毒液のせいだろうか。先生は血管の走行を確かめてから一点を定めると、次は弾力を確かめるように軽く押す。
先生の言う『キレイ』の基準が全く分からず、私は「はぁ」としか返せなかった。脱脂綿で肌を拭かれ、「チクッとするよ」「痺れない?」などと声を掛けられながら血を採られる。
あっという間に採血は終わった。抵抗を感じない、鮮やかな手技だった。
「ありがとうございました」
「お礼を言うのはこっちだよ。臨床研究に協力してくれてありがとう」
「りんしょうけんきゅう、ですか」
私は役所から言われたままこうして来たわけだが、詳しい話は知らなかった。針を抜かれた場所をガーゼで押さえながら、目の前の先生を見る。
「そう。僕はこの地域に住む人たちの健康状態を調べてるんだ。色々と分かれば病気の予防にも活かせるし、ここだけじゃなくて世の中全体の役に立つんだよ」
並んだ試験管に私の血を移しながら、先生は穏やかな表情で話す。試験管を蓋するゴム栓に採血針が突き立てられると、先生の手の動きでガラスの中を暗い赤が満たしていく。血が分けられた二本の試験管にはどちらも白い紙が貼られ、黒字で『No.1373』と書かれていた。
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