ー急な引き

3/6
前へ
/56ページ
次へ
「やっぱ、まじか。あれだろ、あの数学教師」 「団地妻イチコロのイケメーン、な?」 「えー」 「まあまあ、そう残念がるな。ああいうカワイコちゃんはどうせ、みんな売約済みだ」  笑い声がこだまして、急にしんとなる。人の気配はすっかり消えていた。  僕はしばし目を閉じて、それからぱちぱちさせた。  団地妻イチコロ? ……逢坂先生って、そんな異名を持っているんだ。  じゃなくて!  僕は腕を組み、空目で天井を仰いだ。この際だから、カワイコちゃんの部分は聞かなかったことにしよう。  一旦落ち着いて、頭を整理する。 「……ううむ」  しかし、なにをどう整理しても、数学の先生である逢坂先生と、翼である僕が「できてる」らしいという結論になるのは、気のせいだろうか。  うちの学校で、ほかに団地妻をイチコロにできる数学教師なんていたかな……? 「おい」  僕が首を傾げたとき、この頭のてっぺんに低い声が突き刺さってきた。  あまりにいきなりだったから、僕は下駄箱の側面に引っ付いて、大仰な悲鳴を上げた。  逢坂先生もびっくりしている。肩を跳ね上げ、片目をつむった。でも、次の瞬間には、オシャレ眼鏡の向こうから鋭角にまなざしを注いだ。  僕は視線を落とし、一歩後ずさる。 「……すみません。大声なんか出しちゃって」 「なにしてんだよ。んなとこで」 「な、なにって。その……」  僕と逢坂先生ができてるってハナシ聞いてましたー。ふふっ。  なんて、口が裂けても言えるわけがない。  いや、きっとなにかの聞き間違いだ。  僕と逢坂先生は男同士なんだ。自分たちの先生で、それも男同士なのに、あんなに軽々しく「できてる」なんて口にするはずもない。  普通に考えたら気持ち悪いだろ。それをあんな楽しそうに……。  逆に、もの珍しいから愉しげだったのかな。  あああっ。  もうワケわからん! 「渡辺」 「は、はいっ?」  素っ頓狂な声が出てしまった。  逢坂先生も一瞬、言葉に詰まっていた。 「……お前、もう帰れるんだろ」  そういえば、先生がこんな時間まで残っているのは珍しい。  どうしたのかと訊こうとしたら、逢坂先生の視線が職員室のほうへと向いた。  二人で歩き始める。  でも、僕はちょっとスピードを落とし、距離を空けた。途中、きょろきょろもして、辺りを窺った。 「たまには、俺も部活に顔出さなきゃと思ってさ」  職員室へ入ると、逢坂先生は唐突にそう言った。自分のデスクの椅子にどかっと腰を下ろし、長い足を組んだ。  僕たち以外はだれもいない職員室。窓側は電気が消えて、暗がりになっている。  僕は、昇降口で聞いた会話が頭にこびりついていたから、曖昧に返すことしかできなかった。  不意に、ぐいと腕を引かれた。  逢坂先生が訝しむような目で、じっと僕を見ている。 「な、なんですか?」 「さっきから変だろ。お前」 「……べつに」  僕は視線をそらし、肘を引いた。  あっさりと、逢坂先生は放してくれた。背もたれにふんぞり返って頭を掻いている。 「あの、僕、きょうは早く帰らないとなんで、これにて失礼します」  とは言ったものの、完全には帰り支度は済んでいなくて、いまからカバンにいろいろ押し込んだ。  今度はその手を掴まれる。  僕はどきっとして、恐る恐る逢坂先生のほうに顔を向けた。 「それは俺のジッポー」 「え?」  手を開くと、たしかに、僕には必要のないシルバーのライターがあった。  頭を下げて、そっと返す。  どうやら僕は、となりのテリトリーにまで侵入していたようだ。  逢坂先生の、矢のような視線を後頭部に受けつつ、僕は帰り支度を再開させた。 「ところでさ、今週末どうするよ」 「はい?」 「俺がいつも決めてるから、今回はお前が行きたいとこ決めろ」 「あ、あの。すみませんっ」 「ん?」 「じつは用事ができまして……。週末はちょっと……」  逢坂先生の視線が細くなって、さらに尖る。  なんだろう。なにかを探っている感じのする目だ。  僕は思わず身をのけ反らせた。  べつに、一回ぐらい断ったって、世界が滅びるわけじゃないんだからいいじゃないか。  そう負けじと抗議の目線を送った。  僕たちのことが、本当にウワサになっているなら、一緒に出かけるのはしばらく控えたほうがいい。  根津先生も、僕たちの仲がどうのこうのと言っていたし、もっと遡れば、中畠先生も、そんなニュアンスのことを口にしていた。 「昼間、敦士に声かけてたんだろ、お前」 「ああー……はい」 「それなのにもう用事か」  ううっ。  なんて痛いところをついてくるんだ。  やはり数学の先生は頭の回転が違う。  僕が口ごもっていると、逢坂先生の表情がもっと険しくなった。  乱暴に椅子を立つ。
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!

123人が本棚に入れています
本棚に追加