ー急な引き

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「ま、いいや。わかった」  挙句は、なにもかも諦めたような、投げやりな言い草。お疲れさん、とぶっきらぼうに言って、カバンのベルトに頭を通しながら職員室を出ていった。  デスクに肘をついて、僕は下唇を突き出した。  僕なんかと飲みに行けなくなったくらいで、そんな態度をとらなくてもいいのに。  それとも、がっかりしていたのかな。とっても楽しみにしていたとか。  だとしたら、申し訳ないことをした。  結局は嘘をついたわけだから、良心も痛む。  僕だって断りたくはなかった。根津先生と行けるのも楽しみにしていたし、学校以外での二人のやりとりも見てみたかった。  のそのそとカバンを提げ、僕も職員玄関へ向かう。  とにかく、あんな言葉を耳にした以上、大人しくしているほかない。  きょうの職員室は、特段変わったところはなかったから、先生方の耳にはまだ入っていないと思う。もし先生たちの耳に入っているなら、教頭先生からの呼び出しがありそうなものだ。  たとえ呼び出しを食らったって、そもそも僕と逢坂先生のあいだではなにもないんだから、弁明なり釈明なりすればわかってもらえるはずだ。  とにかくだ。これ以上変なウワサが広がらないように、いまは気をつけるしかない。  逢坂先生に不用意に近づかない。会話も極力押さえる。  ほとぼりが冷めるまではこれでいこう。逢坂先生にまで迷惑がかかる前に。  よしよしと胸を叩く。自分にも言い聞かせるように大丈夫と呟いて、僕は職員玄関を出た。  次の日の朝、僕は、けたたましく鳴る携帯の着信音で目が覚めた。あの黒電話の音だ。  それにしても、こんな朝っぱらから携帯が鳴るなんて珍しい。そう思いながら指をさ迷わせ、枕元を探った。  携帯を取ると、表にある小さな画面を、細目で確認する。 「くれ……はやし?」  一瞬、それがだれなのかわからなかった。  でもすぐに、布団から跳ね起きるほどびっくりして、立ち上がりながら携帯に出た。 「お、おはようございますっ。渡辺です」  言いながら部屋の時計を見ると、七時半を示していた。  冷や汗がどっと吹き出す。  暮林(くればやし)先生は吹奏楽の総監督で、タクトを振っている初老の偉い先生だ。  というか、七時半て、吹奏楽の朝練が始まる時間じゃないか! 「渡辺くん、いまどこにいるの?」  しわがれた声が焦りの色を伴っている。  朝練に遅刻していることを怒られるんだと思いながら、僕はパジャマを脱ぎ始めた。  ついでに、なぜか鳴らなかった目覚まし時計も睨んでおく。 「す、すみません。まだ家です。すぐに向かいます」 「音楽室の鍵がないんだけどね、きみ、きのうの放課後どうしたの?」  僕は、ワイシャツへと伸ばしかけた手を止めた。  ──鍵がない?  放課後と聞いて、とっさに逢坂先生の顔が浮かんだけど、違う違うと、頭を掻きむしって追い出した。  音楽室と音楽準備室に鍵をかけたのはたしかだ。それは覚えてる。そのあとは……どうしたんだっけ? 「僕のデスクにありませんか?」 「それがないんだよ。悪いと思ったんだけど、引き出しまで開けさせてもらったのに、見つからないんだ」  えー、なんでないのー?  思わずそう言いそうになって、慌てて口を塞いだ。  特別教室は施錠したら、必ず鍵をキーボックスにしまわなくてはならない。だから、キーボックスにかかってない時点で、かなりマズいことなんだ。  教頭先生のキツネ目が、さらに三角になる場面が思い起こされる。 「ほんとすみません。ええとええと……」 「まさかと思うけど、きみ、持って帰ったんじゃないの?」  暮林先生のその言葉で、背筋が凍った。  床に放置されているカバンに目をやる。  ま、まさか……。  でも、逢坂先生のライターまで持ち帰りそうになったくらい、きのうは焦っていたし、ありえるかもしれない。 「あ、ありました……」  カバンを逆さにしたら、ノートや教科書と一緒に鍵も出てきた。  電話口からも安堵の空気が流れてきた。  よかった……。って、しみじみしてる場合じゃないよ!  僕は、いますぐ向かいますと叫ぶように言って、携帯を切った。  身支度を整え、歯を磨きながらカバンに必要なものを詰め込む。  教師になって何度目だろう。こんな生きた心地のしなかった朝は。  怒涛の勢いで部屋を出て、車へ乗り込んだ。  僕はなんと、音楽室と音楽準備室の鍵を持ち帰っただけでなく、職員室の明かりを消すこともしなかったらしい。  二時間目が終わったあとの休み時間、教頭先生に呼ばれた。  朝の一件もすっかり忘れていて、僕は応接室へ入るまで、逢坂先生とのことかと勘違いしていた。
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