ーけじめは曖昧で

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「あ、逢坂先生。悪いね。と、じゃあ渡辺先生、また」 「はい。ありがとうございました」  片手を上げて峯口先生がにこやかに去っていく。  逢坂先生はすぐにデスクへつくと思って、僕は椅子を引いていたのに、その気配はなかなか進まなかった。  そこに落ちてくる声。 「くそ。俺の席を占領してたばかりか、渡辺にまでなれ──」  途中で切れたから、どうしたのかと僕は顔を上げた。逢坂先生が根津先生のワイシャツの襟ぐりを掴み上げている。 「勝手にアテレコすんじゃねえ」 「あ、でも思ってたんだ」 「いいから黙れ。てめえは」  周りを見ると、ほかの先生方がこっちへ注目していた。  まずいと思い、僕は二人を職員室の外まで押し出した。火事場のクソ力というやつかな。自分でも信じられないくらいの素早さと力だった。 「たしかにね、つぐちゃんにはない物腰柔らかな感じがね」 「うるせえよ」 「ハチコウのテイオーが嫉妬とかウケるぅ」  ものすごい形相の逢坂先生が、根津先生の額へ自分の額をつけんばかりに迫っている。けど、根津先生はくすくす笑っているだけだ。  そこへ、生徒がわらわらと集まってきた。  とにかく二人を止めないと。僕がそう声を上げようとしたら──。 「きみたち!」  電光石火のごとく、教頭先生の鶴の一声が飛んできた。  逢坂先生も根津先生も、さすがにヤバいという顔つきになって、そそくさと職員室へ戻った。  教頭先生は、ギャラリーとなっていた生徒たちを追いやるように手を広げ、廊下の向こうまで行った。  その隙に僕も職員室へ戻る。戸も閉めておいた。  逢坂先生と根津先生を見れば、すでに自分たちのデスクにいて、なにごともなかったかのように思い思いのことを始めていた。  なにがきっかけで、急にケンカみたいになったのか。うちのクラスの問題児並み……じゃないな。以下だ。こっちはいい大人なんだから。  僕はため息をついて、椅子へ腰かけた。  放課後辺りに絶対に呼び出しがかかるなと思いながら、次の授業の準備を始めたとき、となりから耳障りな音が聞こえてきた。  机上の一点を見つめ、逢坂先生がシャーペンのクリップを鳴らしている。  まただ。  ていうか、あんなにしょっちゅうあれをやっていたら、あの部分がいつか取れてこっちへ飛んでくるんじゃないだろうか。  僕は一抹の不安を覚え、少し体を引いた。  どことなく逢坂先生の様子がおかしい気がする。  朝、挨拶を返してくれなかったのはいつものことだとしても、終始、周りに対する反応が悪い。珍しくうわの空というか、トレードマークよろしく不機嫌というか。  気にはなりつつ、僕は夜のこともあって、あまり刺激しないようにしていた。時間がたてば、そのうち本調子になるだろうと思っていた。  本日の授業も終え、ホームルームも見届ける。教卓で佐々木先生とプチ反省会をしたあと、談笑しながら一緒に職員室へと戻った。  自分のデスクについてとなりに目をやると、もうカバンがなくなっていた。  となると、きょうは逢坂先生と話す機会もなくお宅へお邪魔することになる。間際にメールで一報は入れるけれども。  急に緊張してきた。  初めて会う人間じゃあるまいし、なにをいまさらどきどきしているんだろう。たぶん、逢坂先生の様子がおかしいと気になっているからだ。  職員室を出て、部活へ向かう最中、僕はあっと声を上げた。  果たしてお泊りセットはいるだろうか……。むむむ。空けとけって、お得意の命令口調で言ったのは逢坂先生なんだから、泊まる気満々で伺うのは失礼にはならないと思う。むしろ、なんの準備もなしにお邪魔するほうが失礼だ。  足を止めて唸っていたら、背後から現れた暮林先生に心配されてしまった。  突然の先生の登場に驚いた僕の口から出た奇声に、音楽室にいた生徒たちが爆笑する。  顔が熱くなる。僕は、だめだ、だめだと頬を叩き、火照る一方の頭も鎮めた。  学校を出ると一旦自宅へ帰って、身支度を整えてから、バスで逢坂先生のマンションへ向かった。  途中、コンビニにも寄る。  逢坂先生の住んでいるマンションは、グレイの外観のスタイリッシュなところ。  それに比べてうちはオートロックとはほど遠い二階建てのボロアパート。お風呂とトイレはさすがについているけど。  それでも逢坂先生を呼ぶには恥ずかしく、家飲みはあちらにお願いした。  一階のエントランスで呼び鈴を鳴らすと、自動ドアが開いた。  部屋の玄関も開けてもらい、先生の顔が見えたら、学校と同じく「お疲れさまです」と挨拶した。靴を脱いで、オレンジの照明の廊下を歩く。
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