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ー一線はともに越えたい
ずっとぼんやりしていた。
聞き届けなければいけない生徒たちの演奏もそぞろに耳へ入れただけだった。
いつも以上に失敗もした。
家へ帰っても反省のし通しだったけど、この時間があってよかったと火曜日の朝は思えた。頭を冷やせるいい合間だったと片づけることでこれからを迎えられる。いつもと変わらずに振る舞えて、なにもなかったことにしましょうと、暗に伝えられる。
ところが、あの姿を目にした途端にすべてが吹っ飛んだ。
癖にまでなっていた椅子を引く動作も忘れていた。距離を置こうとしていた「ウワサ事件」でも欠かさなかった挨拶もまともにできなかった。
最初でけつまずくと、次の日もまた次の日もそんな感じで、それから二週間は目を合わすことさえもしなかった。
逢坂先生もなにも言わない。
期末考査のことを考えなきゃいけないというのもあった。ますます忙しくなってきて、つねに隣り合わせの僕らなのに、背中合わせな感覚だった。
その日の昼休み、僕は昼食後、吹奏楽部の総監督である暮林先生に呼ばれた。ほかの先生方とともに、音楽準備室で軽い打ち合わせを行った。
三年生が抜けたあとの編成を決める演奏テストや諸々だ。
打ち合わせが終わって、職員室へ戻ろうとしたら、職員玄関前の廊下に根津先生の姿があった。
僕を見つけるや先生は手招きして、その職員玄関へ連れ立った。
「継臣さ、いま大事な話してるみたいで」
根津先生が小声で言う。
僕は、いつもの入り口と反対側のドアから職員室を覗いた。
逢坂先生がそうさせたのか、僕のデスクの椅子に生徒が座っている。暗い顔で、先生と話をしている。
僕は根津先生の元へ戻った。
「逢坂先生のクラスの生徒ですか?」
「うん。たぶん」
「なんか──」
深刻そうだった。
その言葉に自分の場所を取られた口惜しさが滲み出そうで僕はつい噤んだ。
「翼ちゃん。余計なお世話だったらあれなんだけど……」
いやなことを言われる予感がした。
「継臣となんかあった?」
僕は、やっぱりと一歩を引き、根津先生を見上げた。
「な、ななな、なんでですか」
「いや、あいつが最近、死んだ魚みたいな目をしてるから。よっぽどのことがあったのかなって」
だからって、どうして僕が出てくるのか。そう言おうとして、これも噤んだ。
あの生徒のことじゃないんですかとごまかし、僕は廊下からも小走りに去った。
職員室で逢坂先生と話をする生徒を見たとき、たしかに僕はいわれない感情と闘っていた。
もしかしなくとも……嫉妬というやつだ。
生徒にそんな感情を抱くなんて、教師として一番あってはならないことだ。
自分自身に嫌気も差すし、なんでと向こうにも詰め寄りたくなる。
その日の部活も終わり、戸締まりを確認して、職員室へと戻る。
この時間はいつもがらんとしている。
鍵を片づけ、自分のデスクに収まりひと息ついたところで、根津先生の言葉が頭に浮かんだ。
「死んだ魚みたいな目をしてる」
……逢坂先生はあの夜のことを後悔しているのだろうか。
だめだ。
と、僕は首を横に振った。
あの夜は忘れることにしたんだ。
それでも、となりのデスクへついつい目をやってしまう。ずいぶんきれいさっぱりになってきたと眺めてしまう。
忘れようとしても忘れられずに悩んでいるのは自分だけかと思うといよいよ怒りも湧いてくる。
僕はとなりの椅子にどかっと腰を下ろした。そっちから「こと」を起こしておいてなにも言ってこない相手へ抗議するように。
あの人の傲慢さを真似て、背もたれにふんぞり返ってみたり偉そうに足を組んでみたりもする。
となりの席へも視線をやった。
逢坂先生はいつもどんなふうに、ここから僕を見ていたんだろう。
「……ん?」
なにかが足に当たった。
見慣れたカバンが目に入る。
そのとき、廊下を歩くだれかの気配がした。足音が迷うことなくこっちへ向かってくる。
座ったまま僕は硬直した。
足音は、職員室の入り口で一旦止まった。
「あれ? 渡辺先生」
耳に入ってきた声はとてもやんわりとしていた。いきなり首根っこを掴むのではなく、僕はがっかりした。
……いや、ほっとした。
「お疲れさまです」
僕は峯口先生を見上げて軽く頭を下げる。
しかし先生は自分のデスクへ向かわず、なぜかそこに突っ立ったままで訝しげな顔をした。
「渡辺くんの席……じゃないよね?」
僕ははっとなった。勢いよく椅子から立ち上がる。
勢いがよすぎて、椅子が壁に激突した。背もたれを押し、慌てて元へと戻す。
峯口先生もここで笑ってくれれば助かったのに、ずっと真面目な顔でいるから、変な言い訳があとからあとから出てきた。
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