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「あれ、おかしいですね。自分のところだと思ってたんですよ。疲れてるんですかね。先週も今週もコンサートコンサートで気の休まる間がなかったから」
僕は言いながら自分の椅子へ戻った。
峯口先生はようやく足を出して、通路を挟んで向こうの列にある自分の場所へと収まった。まず引き出しを開け、持っていたノートをしまう。
「ああ、吹奏楽ね。大変そうだよね。でも、僕も好きだな。うちの演奏。クラシックには明るくないけど」
べつに僕が演奏しているんじゃないけど、自分が関わっている生徒が褒められるのはやっぱり嬉しい。
ありがとうございますと、ちょこっと頭を下げた。なんだか照れくさくて、髪も撫でる。
顔を上げると目が合った。
「渡辺くんてくせっ毛なの?」
峯口先生が「それ」と顎でしゃくる。
僕は黒目だけを動かし、きょうもうねっている前髪を見た。
「はい、そうなんですよね……。これが結構、頑固者で」
「そういえば梅雨の時期なんて大変そうにしてたね」
峯口先生が席を立った。話しながらこっちへやってくる。
その大変だったときを、僕は思い出し、恥ずかしくなった。寝坊して、ろくに髪をセットしないまま出勤した日は、相当なうねりを、生徒からずっといじられていた。
峯口先生は僕のデスクへ手をつき、顔を覗き込むように腰を屈めた。
切れ長な目。一見冷たそうだけど、笑みを惜しまないから好感は持てる。
逢坂先生は二重で黒目勝ちだ。だから、笑ったときなんかは白目がなくなり、それで幼くも見える。反対に、無表情でいるとむすっとして見え、本人にその気はなくとも不機嫌と取られる。
僕が、実際そうだった。逢坂先生もそれが難だとこぼしていた。
目の前にある瞳が伏す。
それで我に返った。峯口先生を前にして、結局は逢坂先生のことばっかり考えていた。
「うねうねする髪に焦る渡辺くん。可愛らしかったよ」
「あっ!」
急に閃いて、出る声も大きくなった。
そんな僕に、明らかに困惑そうに先生は訊く。
「なんだい?」
僕は引き出しを開け、分厚い本を一冊取り出した。
「ずっとお借りしててすみません。とっても助かりました」
峯口先生はちょっと間を持ってから受け取ると、肩を震わせながらくつくつと笑った。
いまのやりとりのどこに笑いどころがあったかなと僕は首を傾げた。
「ところで、なにがあったの」
「え?」
「疲れていたとはいえ、デスクを間違えるなんて相当なことだよ」
「そ、それは……」
「プライベートでかな。僕でよければ相談に乗るよ」
僕は目を下げ、なんとなくとなりを見てしまった。しかし、いくら峯口先生でも、あんなことは相談できない。
「ああ」
なのに峯口先生は、なにかを悟ったような声で頷いた。
「えっ」と僕は背もたれを鳴らした。
「逢坂先生か。悩みの原因は」
「ち、違いますよ」
「いいよ。変なようにはしないから。あれでしょ。渡辺くん、きちんとしてるから、となりがああで日々ストレス感じてるんでしょ。もしなんだったら、僕が教頭先生に席替えの要望出そうか?」
僕は少し考えて、首を横に振った。
「周りの先生方の目もありますし、急に席変わったりだとかはちょっと……。先生が気にかけてくださったのはありがたいんですけど」
「そうか。でも、無理は禁物だよ」
はっきりと「はい」と言うのも違う気がして、僕は濁しておいた。
「それにしても逢坂先生って、院生のときは優秀だったって聞いてたけど、あれだね」
「え?」
「ああいうタイプは学者向きなんじゃないかな」
「……」
僕は首をひねった。
学者がどうのこうのより、逢坂先生は教師に向いてないと、言外に聞こえる。
たしかに峯口先生は、逢坂先生より長く教鞭を執っていて、その辺りのことは達観しているのかもしれない。僕もお世話になっているし、尊敬もしている先輩だから噛みつくような真似はしたくないんだけど……。
「逢坂先生は、いまでも優秀なんじゃないですかね。少なくとも僕にとっては、お手本にしたい一番の先輩です」
自分にしては珍しく言い切った。ちゃんと。
どこか晴々しい気持ちで峯口先生を見上げると、普段あまり見ないような険しい目つきをしていた。
僕は気を改め、言葉を重ねる。
「少し……いえ、だいぶ。強引で傍若無人、自分勝手なところもありますけど、生徒思いの立派な先生だと思います」
峯口先生がおもむろに視線を外した。僕の後ろのほうへちらっと投げる。
却って気分を悪くさせてしまったのかなと思ったけど、言ったこと自体にやはり後悔はなかった。
「なんか……すみません。僕ごときが知ったふうなこと言って……」
「いやいや。僕のほうこそちょっと口が過ぎたかな」
そう肩をすくめて、峯口先生は自分のデスクへ戻っていった。
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