ー一線はともに越えたい

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 僕は帰り支度を始めて、職員室を出る際にもう一度、すみませんでしたと頭を下げた。  職員玄関へ着いたとき、職員室から人の話し声がした。  峯口先生はまだいるはずだから、そこへだれかがやってきて……と思った瞬間、逢坂先生のデスクに残されていたカバンを思い出した。  耳を澄ませば、なにを言ってるのかはわからないけど、たしかに逢坂先生の声な気もする。  タッチの差だから、もしかしたらさっきの会話を聞かれていたかもしれない。それを思うと、なぜだか焦るばかりで、逃げるようにして職員玄関から出た。  次の日の放課後、部活の時間。新編成になって初めての全体練習が行われた。  僕も音楽室の隅でその様子を眺めていた。ちょっと気を緩めると、きのうのことを考えそうになって、そのたびに頬を叩いて自分を諌めた。  ……僕のあとに来た人は本当に逢坂先生だったんだろうか。だとしたら、峯口先生となにを話していたんだろう。  タクトで譜面台を叩くいつもの音が聞こえた。暮林先生が演奏をやめさせるために鳴らすものだ。けれど、きょうばかりは僕へも向けられたような気がして、背筋を伸ばした。  小休憩になったとき、暮林先生から呼ばれて、職員室へコピーを取りにいくように頼まれた。  足早に旧校舎を出て、第一棟の廊下を歩いていると、どこかの教室から尋常じゃない物音がした。机や椅子が倒れる音だった。  昇降口のほうへ折れ曲がろうとして、僕は足を止める。  帰宅部はとっくにいないはずの時間帯。音の出どころらしい教室を覗くと、二人の生徒が対峙していた。微動だにしない。ただ睨み合っているだけだ。 「加藤! 久慈!」  うちのクラスの問題児二人だった。  しかし、ここは彼らの教室じゃない。それなのに、どうしてあんなことになっているのか。  比較的明るい性格の久慈は、こっちを見てあっという顔になった。無表情がウリの加藤は、鼻であしらうかのように関心も示さない。僕の声をきっかけに、久慈のブレザーを掴み上げた。  これが佐々木先生であれば、最初の一声だけで二人を制止できた。  僕にはやはりそんな力はない。まざまざと見せつけられた気分だけど、いまは落ち込んでいる場合でもない。  前みたいに弾かれないよう注意しながら、僕はどうにか二人のあいだへ体を入れた。  加藤の手を久慈から離すべく、自分より一回りは大きい少年を、力の限り押しやった。  これが意外に功を奏して、加藤は久慈から手を離した。あっさりしすぎていて、拍子抜けしたくらいだ。  ところが、その手は標的を変えただけだった。僕のスーツの襟をむんずと掴む。  いきなりのことで声なんか出なかった。  ものすごい形相の加藤をただただ傍観し、急に慌て出した久慈の声を聞いていた。  そこに脇から伸びてくる手があった。 「かーとう。やめとけって」  宥めるように、幾分穏やかな声色ではあるけれど、言葉だけで押さえつけるあの姿勢は健在だ。大きな姿も、僕の視界へ入ってきた。 「逢坂……」 「お前、よっぽど俺の説教部屋へ行きたいんだな」  加藤は舌打ちをして、僕にも一瞥くれたあと、大股歩きで教室から出て行った。  畳みかけるような衝撃で、僕はしばし動けないでいたけど、なぜこんなことになったのか、加藤の言い分も聞かなきゃと思って足を出した。  そのとき、逢坂先生に肩を掴まれ、止められた。 「渡辺先生。あいつはほっときましょう」  他人事のような言い草。まるで僕をも突き放すようで、つい睨むように見返していた。 「ご自分のクラスの生徒には、これでもかってくらい目をかけられているのに、人のクラスの生徒には、勝手にしろ、なんですね」  あわよくば仕切り直しにできた場面は、苦々しいものとなった。  僕はそれにも失望し、逢坂先生の顔も見ずに、加藤が向かったはずの昇降口へと走った。  だけど、彼の姿はすでになかった。下駄箱を覗いたら、かかとのつぶれた上履きが入っていた。  出入口から顔を出して、校門までの広場を見渡してみる。やはり見つけられなかった。  駐輪場のほうも確認しようか悩んだけど、久慈も放ったらかしにはできず、さっきの教室へ戻った。  その室内には、逢坂先生が残っていた。  僕の足は入り口で止まり、先生がこっちに気づいてないとわかると、体は廊下へと引っ込んでいた。  久慈と逢坂先生が話をしていた。久慈は軽く頭を下げ、その肩を先生は叩いている。  逢坂先生は笑っていた。  あんな、屈託なく笑う顔……。僕だってめったに見れない。僕は、からかわれるばっかりだ。  きっと、あの笑顔がみんなを引きつけているんだと、いま理解した。  それと同時に、にわかに腹の底から湧き上がってくる悔しさ──。  まただ。また僕は嫉妬みたいなことをしている。  僕はずっと握りしめていたプリントをさらにくしゃっとさせて、二人に声をかけることなく、教室をあとにした。
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