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 柴本の見立てた――嗅ぎ当てた?――通り、検査の結果、彼女の夫は脳を患っていたことが判明した。  効果的な治療薬は未だなく、向精神薬で衝動的な行動を抑えるのみに留まっているそうだが日常生活は可能で、とくに寒川夫人の心身にかかる負担はかなり減ったという。 「不幸なモンだよな」  彼にしては珍しい、少し抑えめのトーンに頷く。  日本でも有数の証券会社で働いていた寒川氏は、早期退職し、これから悠々自適の暮らしを送ろうというところで、大病を患ってしまったのだ。何の前触れもなく、突然に。   『あともう少しだけでも、この状態が続いていたら、どうなっていたか分からなかったわ』  どこかホッとしたような声音の、夫人の言葉を思い出す。  偶然に柴本が気付かなければ、寒川氏は今も奇行を繰り返していたことだろう。精神的に追い詰められた夫人が、なんらかの凶行に及んでいたとも限らない。  更なる不幸を未然に防ぐことが出来た、それだけでも良かったと思うほかないだろう。  わたしと、わたしの家族だった人たちのように――理由は違うけれど――修復できないくらいバラバラになってしまうのを寸前で回避できたのだ。    あとは寒川夫妻の個人的な問題だ。頼まれもしないのに赤の他人が立ち入るべきではない。  そもそも、今の柴本はそれどころではない。  イノカミマートの万引き被害は今も続いている。近所の交番に詰める警官もこまめに立ち寄るようになったそうだが、犯人はいまだ見つかっていないと聞く。 「それより、今日のメシは? 腹減ったよー」  肉団子と白菜の鍋は、花椒を効かせたごまだれで食べるのが旨い。実は先々週も作ったのだが、柴本にリクエストされてまた作ってしまった。  もう少しだけ待っていてね。すぐに出来るから。  目をキラキラ輝かせる柴本に言う。    獣人――犬狼族の柴本と、人間のわたし。もう少しだけタイミングがズレていたら、この少し奇妙だけれど笑顔に満ちた日々には巡り合えなかっただろう。 「何か手伝おうか?」  それじゃ、お箸と取り鉢を出しておいてよ。あと、冷蔵庫の麦茶をコップに注いでくれる? 「あいよ!」  椅子から立ち上がる柴本を横目で追いかけながら、ぐつぐつ煮える鍋をカセットコンロの上に置く。  今夜は一段と冷えそうだけれど、この家の中と食卓は暖かい。    寒川夫妻が囲む食卓もまた、どうか温かであって欲しい。そう願わずにはいられなかった。 (了)
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