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 上着に縫い付けられた連絡先に電話をかけて間もなく、寒川の妻が事務所に駆け込んできた。  夫と同じく人間種の女性で――法の下の種族平等が掲げられてから長い時間を経ても、異種族の夫婦は未だに珍しい――、品の良さそうな面差しには、疲労による(かげ)りがありありと浮かんでいた。  夫とは違いきちんと服装を整えて化粧を施し、品の良い香水の香りを纏っていたが、それでも困惑と、絶望と言い換えてもいいほど深い諦観の匂いを上書きするには至っていなかった。 「この度は主人が本当に申し訳ありません」  頭を下げる妻の横で、相変わらず椅子に縛られたままだったが、助け起こされた寒川は、バカヤロー! だの、おれは悪くない! 等の罵声を上げ続けた。  少しの間は堪えていた寒川夫人だったが、やがて堪忍袋の緒が切れたのか怒りの匂いを文字通りに爆発させ、夫に負けじと声を張り上げた。 「いい加減にして! あなたのせいでメチャクチャなの! 何もかもよ!」  しばらくは何事かモゴモゴと口ごもっていた寒川氏だったが、やがて夫人のただ事ならぬ剣幕に圧されたのか、俯いて黙り込んだ。  ふたりの間に立っていた井上は、茶色の毛並みの中に埋もれた小さな眼をぱちくりと瞬かせて、怒りを露わにする女性と、それに圧される男とを交互に見た。  それから、困ったように眉間にしわを寄せて柴本に目を向けた。 「ねぇ、どうして? ちょっと前までこんなじゃなかったのに。一体どうしちゃったの? ねぇ?」  仕立ての良いジャケットの襟を掴んで声を震わせる妻を前に、寒川はさっきまで威勢良く暴れていたのが嘘のように静かだった。その困惑しきった目は宙を泳いでいた。  柴本は濃厚な困惑を寒川から嗅ぎ取った。自分がどうしてこうなったのか、彼自身にも理解できないでいたのだ。 「奥さん。旦那さんは急にこんな風になられたので?」  ひとしきり怒りを放ち、寒川夫人が冷静さを取り戻した――あるいは怒りの匂いを薄れさせた――のを見計らい、言葉を掛けた。
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