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7.
以上が、数日前にわたしが柴本から聞いた話である。
「そっか、それじゃこれ持ってきてくれたのは寒川さんの奥さんか」
そうだったよと、鍋の火を調節しながら言葉を返す。
「寒川さん、びっくりしてたろ?」
わたしは頷きながら、昼過ぎにこの家を訪ねてきた寒川夫人の姿を思い返す。名刺と表札を交互に見比べて違いに困惑し、さらにドアチャイムに続いて出て来た人間に驚いた様子だった。
「この辺りは獣人ばっかりだからなー。まさか人間が出てくるなんて思わなかっただろうよ」
それもあるけど、名刺と表札の名前が違ったら困るだろうね。名刺には柴本って書いてあるのに、表札には眞壁って掛かってるんだから。
わたしと柴本が暮らしているこの一軒家の家主は、今はいない。海外での仕事が多く、家を空けがちな友人に代わって家を管理する代わりに住まわせてもらう、これもまた便利屋の業務のひとつだと聞いている。
毎日暮らしていながら手入れが隅々まで行き届いているのは、防衛官時代に培った経験だという。柴本いわく、新米の防衛官が最初に教わるのは銃の扱いや近接格闘ではなく、制服のアイロンの掛け方や部屋の掃除、完璧なベッドメイキングなんだとか。
ちなみに、わたしはまだ眞壁さんに直接会ったことはない。ルームシェアを始めてから半月くらいの頃に、Webチャットを通じてパソコンのディスプレイ越しに1度話をしたきりだ。
また話題が逸れてしまった。
「で、寒川さんの奥さん、どうだった?」
名刺も表札も応対した人物も、何もかもが違って困惑していた夫人を思い返す。
たしかに疲労の色が濃く見えたけれど、それでも今から思い返せば、どこか安堵したような表情だったような気もする。話のところどころで笑ったりもしていたし。
ふつふつ煮え立つ鍋の火を弱めながら、ありがとうって言ってたよと伝えると
「そっか」
小さな、けれども喜びの色がありありと取れる表情で呟くのが聞こえた。
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