誰でもヒーローになれるのかもしれない。

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誰でもヒーローになれるのかもしれない。

 あけましておめでとうございます! かんぱ~い! の声に合わせて、個人で経営している居酒屋の一角でガラスの音が鳴り響いた。長机には人数分のビールジョッキと、等間隔で並べられているオードブル、その他諸々だ。僕はまだ飲みなれないビールをとりあえず一口飲んで(と言っても泡だけを舐めただけ)この騒然とした空間の中、なるべく目立たないように端の席に座っていた。  大人はなぜこんなに飲みの席を設けたがるのだろうか。  僕は新年会の前に一杯ひっかけて来たであろう部長の赤い顔を見て思うが、酒飲みの気持ちは酒飲みにしか分からないと自己完結して、箸をオードブルへと伸ばした。   サワーを一杯飲んだだけで酔っ払う僕の楽しみは、この長机に並ぶ揚げ物たちを頬張ることだ。レモンを絞るかどうか賛否が分かれる唐揚げには、三人の子をもつ主婦の先輩が否応なしに果汁を絞る。周りはみんな酒を飲んでいるから、唐揚げにかかったレモンの味なのか、飲んでいるハイボールに入っているレモンの味なのか分からないだろう。    僕はひとつ唐揚げを摘まむと自分の皿に乗せ、次にエビフライを取る。そしてグリンピースの乗ったシュウマイ、その横のエビチリ、あとはオードブルの横に置いてある枝豆を数個。これで僕の夕飯は完成だ。 「去年はお疲れ様ねぇ。今年もよろしくお願いします……って、全然飲んでないじゃない! ほら、若いんだからもっと飲まないと。ほら、くいっと」    そんな声が左耳の後ろで聞こえてくると僕は氷水の入ったコップを持ち「酒弱いんで」と言う。去年──つい半月前にもこんなことがあったなとデジャヴを感じた僕は下手くそな空笑いをして、その場をやり過ごす。会社でも空気みたいな僕にお酌なんてしなくていいのに。むしろそっとしておいてください、と心の中で手を合わせると僕は小さな声で「いただきます」と言った。    課長の独特の笑い声に釣られ、わっと盛り上がる社員一同の声を聞きながら僕は唐揚げをひとつ口に頬張る。あぁ……沁みる……朝も夜も冷え込んで来たこの時期の唐揚げは格別だ。それに先ほど絞られたレモンもいい味を出している。レモン絞る派の僕は心の中で先輩へ親指を立てながら醤油を一滴、二滴とシュウマイにかけると、半分ほどかじりつく。ううん、これもうまい。中華料理屋よろしく大ぶりの肉シュウマイは唐揚げと同じ「肉」なのに何でこんなに味が変わるのだろう。料理がてんで出来ない僕はシュウマイを作ろう! なんて思ったことすらないから、最初にシュウマイを作ろうとした人は偉大だ。それにこのエビフライだって、背が丸まっているあのエビを真っ直ぐにして、わざわざ衣をつけて揚げるなんて……凄いなぁ。 「はいはーい、誰か注文する人いますかー?」    僕の三つ歳下の後輩が間延びした声を出しながら手を挙げると、あちこちから追加の注文をする声が飛び交った。僕は最初の「ジンジャーハイボール氷少なめの濃いめ」まで聞くと後は右から左へ受け流す。あれ、なんかこのフレーズ懐かしいな。    後輩は好き勝手叫ぶ大人たちの注文を嫌そうな顔で聞き終えると、手元にあった追加注文票に次々とペンを走らせて書き、店のマスターへと渡した。「すみません、うるさくて」「いいんだよ。いつもありがとう」なんて会話がすぐ隣で聞こえてくると、普段はだるそうに仕事をしている後輩が誰よりもしっかり者に見える。こういうところで人の本性は出るんだろうな……一方僕はひとりでこうして皿の上にある料理を口に運ぶくらいしかできていないんだけど。    もっと社交的で、明るくて、冗談が言えるような人間だったら飲み会の席も楽しいんだろうけど、いかんせん根暗だからなぁ。こんな僕をどうしてこの席に呼ぶのかも分からないし……合コンで言う数合わせ、みたいな。そういえば王様ゲームって今の時代でもあるのか? 王様だ~れだ! はい、俺です! じゃあ、一番と二番は~~みたいなノリのゲームのイメージだし、僕には縁もゆかりもないゲーム。まず合コンに誘われないと出来ないってあたり、陽キャ向けの遊びだよなぁ。王様ゲーム。 「よっしゃ、部長! そろそろ歌いますか!」  僕が一人そう思っていると上座で真っ赤な顔した課長が手を叩いた。幸い僕たちのグループ以外で飲みに来ているのは常連さんぽい人が数人しかおらず、マスターは笑いながら分厚い歌本を部長に渡す。あれ久し振りに見たなあ。部長くらいの歳になると電子よりアナログの方が探すのが早そうだし、案の定開いた瞬間目的の歌があったようで、番号を一つ一つ入力していくと爆音で演歌が流れ始めた。  酔っ払いの部長の歌はほとんど聞き取れないけど、楽しそうで何よりだ。僕は机に置き去りにされている揚げ物や添えられている程度の野菜を皿に回収しては胃に入れていき、時々拍手を送りながら場の空気に馴染んでいた。  そんな時、僕の元に一冊の歌本が回って来た。何人も捲ってきたであろう、表紙がしわくちゃな歌本だ。隣に座っていた後輩は「先輩、みんな一曲ずつ歌うみたいですよ」とげんなりした表情を浮かべており、僕は満腹になりつつある腹を擦ると歌本の表紙を捲った。  照明も相まって小さな文字がちかちかとして見えると目を細め、文字を視線でなぞっていく。すぐ破けてしまいそうなほど薄い紙の間に指を入れ適当に開いてみると、学生の時に好きだった歌が目につき、僕は深く息を吐くと渡されたリモコンでその曲の番号を押した。 ◇ 「泉くんってさ、あぁ見えて結構やり手なのよ」  私はひと回り年上の大和田さんに、まるで内緒話をするように話しかけられるがイマイチ言っていることがピンと来ない。あの泉さんがやり手? だって飲み会が始まってからずっと席の端で冷めたオードブルを摘まんでいるだけだし、氷の溶けた水ばかり飲んでいるだけ。さっき私がマスターに注文票を届けに行った時も一人でにやついていて、やっぱり何考えているか分からない。 「人は見かけによらないって言うけど、泉くんはまさにそうね。美咲ちゃんは分からないけど去年の忘年会の時すごかったんだから。ほんとう。あ、ほら……静かに聞いて」 「……はい?」  それまでざわざわと騒がしかった空間は一転、カラオケのイントロ部分が流れた瞬間、部長も課長も、べろべろに酔っ払っている先輩ですら、みんなひとつの方向に視線を向けていた。一人何のことだか分からない私は大和田さんに肩を叩かれ身体の向きを変えられるがまま振り返ると、そこにいたのは長机の一番端でマイクを持っている──泉さんの姿だった。 「え……泉さん、歌えるんですか?」 「美咲ちゃん、静かに」 「は、はい」  穏やかに海の波が流れるようなイントロはどの世代でも知っている有名な曲だ。私ですら歌える歌を泉さんが歌えないはずがないのだが、あの泉さんが歌を歌う……? だってまともに会話をしているところすら見たことがないのに、歌を歌えるはずが……。  そんな懸念は泉さんが大きく息を吸った瞬間、払拭された。  マイクを通して聞こえるのは、いつもぼそぼそと話す泉さんの声ではなく、今まで聞いたことのない透き通った歌声だった。例えて言うなら泉さんは口パクをしていて、その後ろで本物の歌手が代わりに歌っているような感じ。それほど泉さんの歌声は、別人のように耳を通って全身を痺れさせられるような声だ。  いつもディスクのパソコン画面か床しか見ていないような泉さんは、マイクを持った瞬間堂々としているように見え、伸びた前髪で隠された顔を私は初めてじっくりと見てしまった。泉さんがかけている眼鏡に反射するカラオケの画面がきらきらと光っているように見え、私の腕を抱き締めながら歌を聞く大和田さんは「ほらね」と小さな声で私に言う。  私は最後まで歌いきって疲れ果てた表情を浮かべる泉さんに盛大な拍手が送られる中、一人こう思っていた。 ──冴えないサラリーマンが、小さい頃に夢見たヒーローに変身して世界を救っていてもおかしくはないのだろうな、と。
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