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カメとピアス
僕はいつも、冬眠したカメのように甲羅の中でふたたび動き出すタイミングを伺っていた。
朝、起きようとしても体が鉛のように重くて、どうにか体を起こして、学校までの道のりをみんなの三倍の時間をかけて歩く。
学校に着く頃にはもうぐったりしている。
疲れがたまると背中も腕も腿もあらゆる筋肉が痛くて、起きることすら出来ない日もあった。
そういうときは抗ってはいけない。
目を閉じて、ゆっくりと呼吸をして、痛みが落ち着くのを待つ。痛みで自分を見失わないように、いつか、動くべき時に動けるように——。
高校に入って三回目、最後の持久走大会。男子は8キロの距離を走る。
学校裏の土手を真っ直ぐ走り、橋を渡って向こう岸の河原を走って戻ってくる。
僕は最後まで走り切れたことがない。
1キロを走った頃には全身が痛く、重く、歩くのも辛い。
もし、歩いてゴール出来たとしても何時間かかるかわからない。
「目高はいいよな。走り切らなくても怒られなくて」
しゃがみ込んで靴紐も結び直していると、後ろから声が聞こえた。
僕は俯いたまま聞こえないふりをする。
「そういえば、うちの兄貴、目高の兄ちゃんと同じ高校だったらしいんだけど、一年くらい前にバイクの事故で亡くなったって聞いた」
「まじ? 可哀想。そりゃ、走れなくてもしょうがないわ。全然、許す」
僕は唇をきゅっと噛んだ。
許すとか許さないとかそんなこと、どうでもいい。兄の死と僕が走れないことは何も関係ない。
僕は立ち上がり、真っ直ぐ前を見据えた。
スタートを告げるホイッスルが鳴る。
川の流れとは逆方向に僕たちは一斉に走り出す。
メダカみたいだ。水の流れに抗うように勢いよく泳いでいく。
でも、僕はメダカみたいにスイスイと泳いでいけない。
スタート地点は同じなのに、僕とみんなとの距離はどんどんと広がっていく。みんなの背中が見えなくなっていく。
一キロを走ったところで、やっぱり体がずっしりと重くなる。
腿もふくらはぎも腕も背中も鈍い痛みが走る。冷たい風が顔に当たって、体力を奪う。頭の奥がズキズキと脈打つ。
ずっと走り続けることはできないけど、立ち止まって、歩いて、走り出す。何度もそれを繰り返す。
「目高、やめとくか? ほとんどのやつがもうゴールしてる」
どうにか折り返し地点の橋に差し掛かったところで、体育の先生が声をかけた。
僕は足を止め、体の痛みと重みで朦朧とする意識の中で先生の目を見つめる。
一番辛いのは、苦しいのは、立ち止まってからふたたび歩き出すときだ。
このまま足を止めて、小さく蹲っていたい。どんどん体は鉛を抱えているように重くなっていく。心が弱くなっていく。
僕は呼吸を整えながら静かに目を閉じ、自分の耳たぶに手を添えた。
兄がつけていた黒色のピアス。
兄は、僕と違って運動ができて、やんちゃな一面もあるけど優しくて自然と人が集まってくる、そんな人だった。
「侑李は、侑李のペースで歩いていけばいい。
ゆっくりと歩く侑李だからこそ、気づけることが必ずあるから」
何をするにも遅くて迷惑をかけてばかりの僕に兄はよくそう言った。
そのたびに、重い体がすっと軽くなった。鉛を抱えて水槽の底に沈んでしまいそうな僕を浮き上がらせてくれた。
そんな兄の突然の死に僕は海の底に落ちるように沈み込んだ。
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