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ピアス
爪は、髪と同じ早さで伸びるらしい。
私はパチンと冷たい音を響かせて伸びた爪先の白い部分を切る。春の日差しが入る誰もいないリビングにパチン、パチンと一定のリズムで音が響く。
自分の体の一部分を削ぎ落とすこの行為を、私たちは生きている限り当たり前のように定期的に繰り返す。
なのに、ピアスの穴を開けるのはこんなにも反感を買うのだろうと、十五歳になったばかりの私は思っていた。
この春に大学生になる姉は、今朝、自分の耳の柔らかな部分にピアッサーで穴を開けた。
両親はまだ早いと怒っていたけれど、耳元にルビーみたいな赤いピアスをつけた姉の表情は憑物がとれたように晴れやかで清々しく、そして、なんだか大人びて見えた。
ピアスの穴を開けたら、私の胸を覆うこのもやもやした感情も勝手に私を追い立てる焦燥感も削ぎ落とすことができるんだろうか。
私はリビングの椅子から立ち上がり、切った爪を包んだティッシュをゴミ箱に放り込むと、そのまま姉の部屋に忍び込んだ。
猫足の丸テーブルの上に散らかったままの化粧品と一緒に置かれているピアッサーを手に取り、耳元へとそっと持っていく。
針の部分が耳たぶに当たってひんやりと冷たい。
この針が耳の柔らかな部分を突き抜けると思うと、ほんの一瞬なんだろうけど、怖い。
それに、両親や担任に何故開けたのかと咎められるのも面倒くさい。
開けた理由を論理的に説明できないし、説明したところでわかってくれるはずもない。
玄関の鍵がカチャっと回る音がして、私はピアッサーをもとの位置に戻して部屋を出て、何事もなかったかのようにリビングの椅子に腰かけた。
私は無意識に、いや、多少は意識的にすれ違う人の耳元を見ていた。
春休み明けの憂鬱な感情から目を背けるように、学校へ向かう最中、友達と廊下を歩いている時、授業中にも気づかれないようにちらっと周りに視線を向ける。
清楚な服装のお姉さんもお洒落な髪型のお兄さんもピアスを付けていた。三つも四つも付けている人もいた。
でも、学校のリーダー格のあの子もクラスで一番やんちゃな男子も付けていない。
当たり前だけれど、学校の中でピアスを付けている人なんてそうそういない。
相当な自由人か、目立ちたがりやか、好きなバンドの影響をもろに受けている人くらいだろう。
けれど、その日、私は見つけてしまった。
ホームルームが終わって、教室を一番に飛び出して階段を駆け下り、昇降口に向かうと、水槽の前に男子生徒がいるのが見えた。
ぎりぎり一人で抱えられるかどうかの大きめの水槽には、手のひらに乗るくらい小さなカメが、一匹だけいる。
名前は特になくて、カメ吉とかミドリとかタートルズとか、みんな適当に呼んでいた。
カメはそんなことお構いなしに気ままに水の中を泳いだり、陸地に見立てた大きな石の上でじっとしたりしている。
彼の後ろを早足で通り過ぎようとしたその時、春の強い風が開けたままの大きな扉から入ってきて、彼の髪がふわりと揺れた。
「ピアス——」
耳に、黒く光るものが見えた。
意外だった。
耳が隠れる長さのさらさらな髪、白い肌に横から見てもわかるくりっとした目、着崩すことなく着ている制服はまだ少し大きめのようで、手の甲が半分隠れている。
どこかあどけなくて周りの男子とは違う。
背だって私の方が高い。
すれた感じも背伸びをしている感じもしない。
ピアスをしそうなタイプには、見えない。
彼はポケットから何かを取り出した。きらりと光る黒いものを水槽の上に掲げる。
「何してるの?」
彼はこちらに顔を向け、口元を動かした。
「ピアス、泳ぐかなと思って」
少しの曇りのない澄んだ瞳でこちらを見つめる。
「え?」
彼の指先には黒色のピアスが摘まれている。
水槽の中からは、カメが首を伸ばしてこちらを見ている。
「カメが食べたら危ないじゃん」
私は彼の手からピアスを奪い取った。
「あ......」
階段の方から賑やかな話し声が聞こえる。
私は慌てて下駄箱からローファーを取り出し、校舎の外へと駆け出した。
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