2 お部屋デート

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2 お部屋デート

 促されるままお邪魔すると、なんとなく違和感を覚えた。具体的にどこがおかしいのかは指摘できないけれども、なにかがちがう。キッチンに置いてある皿用のラック、ベッドにかかっている布団の色、テーブルのサイズ。どれも意識下でかろうじてキャッチできるぎりぎりのラインに引っかかってくる。 「なあ」わたしは努めてなにげない調子で切り出した。「アパートの部屋番号、変わったのか。それと模様替えもしたよな」 「番号は変わってないし、どこもいじってないよ。どういうこと?」  ありがたいことにインスタントコーヒーがふるまわれた。一口すする。味はともかくとして、いくぶん人心地はついた。「だってこないだまで305号室だったろ、ここ」  恋人は怪訝そうに眉根を寄せた。「あたしが越してきたときから304だったけど」 「どうもおかしいな」こたつに足を突っ込み、冷え切った末梢神経をねぎらう。「ふつう『4』は不吉だとかで避けられるはずなんだけど」 「なんで『4』が不吉なの?」 「だから、『死』と同じ語感だからさ」 「そんな話聞いたことないよ」香苗にからかっているような調子は見られない。「どこでも四番めの部屋はそのまま『4』が使われてるよ」 「ぼくのアパートはそうじゃないぜ」  本当にそうだったろうか。自信がなくなってきた。 「そんなことよりさ、こんな話聞いたことある?」彼女は本棚からド派手な表紙の文庫本を引っこ抜いた。「これなんだけど」  それは典型的なえせ科学を売りにした木材資源の無駄遣いで、心霊療法でがんが治ったとか、未来からきたと自称する個人のSNSが驚くべき的中率で地震やら大事故やらを予言しているとかいうたぐいのものだ。  問題のページには多元宇宙論を無手勝流で拡大解釈したジャンク記事が掲載されており、それによればこの世は無限に分岐する無数の宇宙に枝分かれしており、われわれは日々、そのあいだを知らず知らずのうちに渡り歩いているのである! 諸君が明日会う彼氏なり彼女なりは、果たして厳密に昨日のそれと同一人物であろうか? と結んであった。  わたしはこらえきれずに吹き出した。「多元宇宙ってのはさ、波動関数収束問題を回避するためにこしらえられた詭弁なんだよ」 「波動関数ってなに。SUM関数みたいなもの? 自慢じゃないけどあたし、エクセルでまともに使えるのそれくらいだよ」  わたしは詳細は省いて説明することにした。 「たとえばぼくが自分の部屋にいるとき、香苗はぼくがなにをやってるのかわからない。ここまではいいか」 「どうせやらしいサイトでも見てるに決まってるよ」  大げさにせき払いをしておいた。「とにかくそれを確かめるには実際にこっちへきてもらって、ぼくの行動を観測する必要がある」 「電話で聞けばいいじゃん」 「それでもいい。で、そのときになって初めてぼくのやってることが決定されるわけだ」 「そんなのおかしいよ。だって真琴くんがナニしてようと」淫靡に笑う。「あたしが見ようが聞こうが関係ないじゃない」 「量子力学ではそう考えない。。これを波動関数の収束と呼んでるんだな」 「SUM関数の収束ね。で、多元宇宙(マルチユニバース)が詭弁だとかいう話はどうなったの?」 「香苗がぼくの行動を電話で確かめるとする。波動関数の収束はいつ起きるんだろうな。ぼくの携帯が鳴った瞬間か? それとも『通話』ボタンを押した瞬間か? 実際に会話を始めたときか? もしそうなら電磁波が飛んできて、受信端末に流れる電子のひとつめが動いたときか?」 「そんな調子じゃ決められないよ」 「じゃあ観測だとか収束なんてものはなくて、その都度宇宙が分岐すると解釈すればどうだろう」  しばし彼女は視線を外して思案しているようにうつむいた。「つまり真琴くんがナニしてるのかがわかったとき、ひとつの事象に収斂するんじゃなくて、あらゆる可能性の宇宙が生まれるってこと? それなら収束のタイミングがいつかなんて悩まなくていいよね」 「めずらしく冴えてるな」まるで香苗じゃないみたいに。「でも多元宇宙論はなんにも解決してなんかいない。結局宇宙はいつ分岐するんだ?」 「あ、そう言われてみればそうだね」 「要するに」文庫本を投げ捨てた。「こんなのはお子さま向けのたわごとだってことだな」
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