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ながめても あはれと思へ おほかたの 空だにかなし 秋の夕暮
「おっはよー! あーらちゃん、はぴばー!」
自室で熟睡していた少年を騒々しく起こしにきたのは、同い年の少女だった。
今日は五月五日。この日の本では祝日。世間は大型連休を楽しむ人間たちの『気』で明るく沸き立つ。
「……はぁ?」
寝ぼけ眼の少年は、突然の騒音でぶち切れそうになりながらも、布団を頭までずり上げた。
「絶対に一番にお祝いしたくて。来ちゃった」
「……来ちゃったじゃねえよバカヤロウまだ五時半じゃねえか」
「もうお日様出たもん。明るいでしょー」
「うぜえ。帰れ」
やたらと身体を揺さぶって起こしにかかる少女に、少年は容赦ない言葉を浴びせかけるが、全く効果はない。
「穣ちゃんはいつも元気ね。朝ご飯は?」
ドアが開いて、ふたりに声をかけてきたのは少年の母親だった。
「まだ食べてないです」
「よかったら、どう? 一緒に朝ご飯。簡単なものしか出せないけど」
「いいんですか? じゃあ私、手伝います」
「あら、嬉しいわ」
ふたりの声が階下へと遠ざかっていく。静かになった自室で、少年は天井を見つめてため息をついた。熟睡しているところを強引に起こされて機嫌はすこぶる悪い。
カーテンの隙間から差し込む朝日がまぶしい。窓の外からは小鳥のさえずり。どうやらよく晴れているようだ。
「朝っぱらから……あいつ本当に馬鹿なんじゃねえの……」
祝日の早朝に寝込みを襲われれば、愚痴も出ようというものだ。うーん、とベッドの中で伸びをすると、書棚の上からくつくつと笑い声がした。
「いつでもかしましいねえ、あの女は」
「そう思うなら追い出してくれよ」
「嫌だよそんな面倒なこと。それに」
音もなく、それは床へと飛び降りる。
「あんたの力をもってすれば、簡単だろう? あの女が『入ってこれなくする』ことくらい」
暗黒よりも暗い闇を切り取ったような色。口元と足先だけが白い、一見鉢割れの黒猫。だが、人語を話す猫などいない。
初めて会った時。黒猫は自身を使い魔だと言った。だが、誰の使い魔なのか、今日に到っても知らないままだ。少年なりに予想はつけているが、尋ねても毎度はぐらかされるばかりである。
「そりゃあ、簡単だけどさ……」
もごもごと答えることになってしまったのは、穣と呼ばれた少女が少年にとって幼馴染みというポジションにいるからだ。物心つく前からの付き合いでは、あまりにも邪険にするのも気が引ける。
黒猫はベッドへ飛び乗り、ごにょごにょと言い訳を続ける少年へ近寄った。
こいつの中身は何なのか。何度考えたかしれないその問いが、少年の中でしつこく渦巻く。
「あんたはあんたで、面倒な年頃だしねえ。見てるだけで面白いからいいけどさ」
「うっせえから黙ってくんねえ? もう少し寝たい」
「はいはい」
少年は寝返りを打って目を閉じた。黒猫も、その足元で身を丸くした。少女が再びどたばたと階段をのぼってくるまで、まだ少しの猶予はあるはずだ……。
* * *
今日も仕事をする啓明のそばには、直属の式鬼たち、そして現当主の式鬼である健斗がついている。好光老の部下である茂も、巴と馬が合うのか一緒にいる時間が長い。
「ねえ若旦那ー退屈なんですけどー。大型連休中ずっと引きこもってデスクワークとか、世間様に申し訳ないと思わないんですかあ?」
ベッドへだらしなく寝そべっている健斗のぼやきが始まった。
確かに彼の言うとおり、天気はよい。気温は初夏の陽気になる予報で、絶好の行楽日和だ。
「…………」
「出かけてお金使って経済を回さないとー。金は天下の回りものなんでしょー」
啓明は一貫して応じない。つまんねえの、と言って、健斗は話しかけることを諦めた。
死の淵から戻って以来、言葉少なになってしまった安倍家次期当主。業務に支障を来さない程度にしか、喋らない。これまでさんざんしてきた何気ない雑談ができないことで、健斗はストレスを溜め込んでいた。
啓明相手だからこそ話せた、主人に対する愚痴や軽口。代わりに誰に聞いて貰うかが大きな問題だったし、あまり真面目に仕事ばかりされると好物にもありつけない。
無論、健斗ならば自由に出て行って店から直接お目当ての品をかっさらってくることも可能なのだが。安倍家に関わる面々は、払うという行為を特別なものとして捉えている。
払うと祓うは同義。
いっとき儲かったとしても、必ずどこかで、代償を払うことになるのは必定。ただより高いものはないのだ。
何よりも勝手に出歩いては、護衛という仕事をすっぽかすことになる。
「雷で済めばいいほうだし。あーあ。新作のプリンアラモードフラペチーノ飲んでみたーい」
どこでそんな情報を仕入れてくるのか、相変わらず美味しそうな物には目がない健斗であった。
啓明はひたすら彼の話を聞き流すのみ。それよりも、彼には喫緊の課題があった。
現在安倍家で働いているのは、祖母である当主清美の雇った者たちだ。誰もが世の摂理にしたがって年を重ねる。組織の平均年齢が上がっていることが気がかりだった。経理その他事務仕事を総括している烏丸は、清美ほどではないにしろ、リタイヤしてもよい年齢なのだ。
「人生百年時代と言うではありませんか。まだまだ、御当主様のお役に立ちたいのです」
本人はそう言うが、健康でなおかつ現在の能力を維持したまま百歳まで働いて貰えるはずがない。
後任は自分が見つけて、育てておくべきだろう。啓明はそう感じている。否も応もない、この家を継ぐのは自分しかいないのだ。
通常業務に加えて、有能な人材の発掘。時に気持ちに余裕がなくなるほど、多忙だ。
――――臥龍鳳雛、はさすがに高望みしすぎだろうな。
それなりに使えて、絶対に秘密を漏らしたりしない人物。安倍家の特殊な業務形態を理解してくれる人でないといけない。……そう簡単には見つかるまい。
デスクに置いたスマートフォンが着信を知らせた。
「あ。律さん」
名を聞いても、もう誰も驚いたり動揺したりしない。着々と清い交際を続けている啓明であった。
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