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プロローグ
千打目が放たれた。
灼熱のコート上、迫るボールを見据える目が、額から流れた汗によって濁る。乱れた呼吸が、胸に迫る焦燥が、打点の目測を狂わせた。
しまったと思うには遅すぎる。
黄色いボールは大きく弧を描き、相手の頭上を軽々と越えた。ボールの軌道を見た瞬間からヤツは動きを止めた。ベースラインのわずか二ミリ先、落ちたボールがその痕を刻む。
アウト。
むなしく響いた主審の声によって、この苛烈な戦いは終わりを告げた。
(──負けた)
負けた。
俺は、負けたのだ。
────。
『ゲームセット ウォンバイ桜爛 7-6』
令和元年八月十九日、十三時四十分。
全国高校総体──インターハイテニス競技大会個人決勝戦、鈴の森公園テニス場Aコートにて、高校テニス界伝説となるであろう試合の幕が下りた。桜爛大附属高等学校と才徳学園高等部とのS1試合。総時間およそ三時間、タイブレークカウント127-125という壮絶なゲームカウントと、一球にかけるロングラリーの応酬は見る者の気力すら消耗させるものであった。
コート上にはふたりの男子高生。
彼らは審判コールが響いても、互いにサービスライン上から動かなかった。いや、動けなかったのかもしれない。八月の炎天下、コンクリート材質のハードコート上は鉄板のような熱さになる。およそ一分間、選手たちはぼうっと互いを見据えたまま立ち尽くす。
審判の催促をうけ、先に動いたのは敗北を喫した才徳の選手だった。
対して勝利を手にした桜爛の選手はワンテンポ遅れてゆっくりと審判台へ寄る。滝のように流れ落ちる汗をぬぐい、ふたりは一礼ののち握手を交わす。
その瞬間、コート外で観戦していた生徒や一般聴衆がワッと歓声をあげた。
──素晴らしい。
──見ごたえのある試合をありがとう。
溢れんばかりの賛美と労いの声。
コートに一礼、主審、副審と握手を交わし、両選手はラケットバッグを肩にかけてコートをあとにする。フェンス外で応援していたチームメイトや一般観衆が、複雑な面持ちで出迎えた。才徳選手のまわりにはチームメイトが群がり、疲労困憊した選手を見かねて肩を貸す。
「お疲れ。──大神、おまえすげえよ」
「ホントいい試合だったぜ。オレなんか手握りしめすぎて指先痺れてんもん」
「プロでもそうないよ、こんな試合」
と、褒めちぎる仲間の声。
そこに混じった、
「大神」
と呼び止める勝利者の声。
大神と呼ばれた選手の足が止まる。振り向いた。
激闘をくりひろげたその頬は上気し、瞳にはいまだ熱がこもる。振り向いたいきおいでふらつく大神のからだを、チームメイトの倉持慎也があわてて支えた。対する勝利者はしっかりとした足取りで大神のもとへ歩み寄る。真ん中で分けられた髪の毛からのぞく額の傷痕が、小綺麗な顔立ちにはどうにもミスマッチに写る。
意外だったな、と勝利者は口角をあげた。
「おまえのテニスがここまで泥臭いものだとはおもわなかった。おかげで、僕の引退試合にふさわしい試合になったことは間違いない。礼を言うよ」
「──つぎはかならず。引退して腕が落ちることのねえようお願いしますよ」
「つぎって、いつのこと?」
「いつでもいい。あんたがインカレに出るなら俺も出るし、プロになるってんなら俺も後を追う。この借りはかならず返させてもらいます」
大神は唸るように言った。
勝利者はフ、と垂れた瞳を半月型に細めてわらった。
「そんな先のことよりまずは目先のことをかんがえろ。次のセンバツ、才徳で全国獲る気のようだけど──いまのままじゃ、僕のいなくなったうちでも優勝はかたいよ」
「あァ?」
「知っているだろうけど、うちのテニス部には僕がごろごろいるようなもんだ。おまえのその不安定なテニスのままなら、きっと今日みたいな結果で終わるさ」
「なんだとッ」
倉持がぐっと身を乗り出した。
が、それを予測していたか大神がすかさずその肩を引く。目線でたしなめられて倉持はぐっとくちびるを噛んだ。が、勝利者はその怒りをさらに煽り立てるように頬をほころばせる。
「おまえのテニスには足りないものがある。よく言えば伸びしろがあるってことだ。おまえの実力はそんなもんじゃない。その伸びしろを抱えたまま勝負を挑まれても、僕はやる気ないよ」
「……言ってくれるじゃねーか」
大神の顔がゆがむ。
が、そのとなりで大神を支える倉持の顔はもっとゆがんでいる。周囲からこのやり取りを見つめるチームメイトたちは、ハラハラと落ち着かないようすで互いに顔を見合わせた。
いいこと教えてやる、と余裕ある笑みを浮かべて勝利者は言った。
「こんど才徳に”七浦”ってヤツがいく。テニスの腕は僕のお墨付きだよ。出来るなら一度ゲームしてみるといい」
「……ななうら?」
「おまえのテニスに足りないものを持ってる。大神なら、やってみれば分かるよ」
と。
意味深なつぶやきをさいごに、勝利者は振り向きもせず大神の前から立ち去った。周囲に集る人波が、勝利者の道を開けんとモーゼの海割りのごとく両端に分かれていく。才徳のチームメイトたちは茫然としてしばらく身じろぎひとつしなかった。
止まった空気をふたたび動かしたのは、おい、と倉持の肩を拳で打った大神であった。
「この俺のテニスに足りねえものがなにか、てめーわかるか」
「はあ? わかんねーよ。あの人はああ言ったけど、正直いまの試合だってどっちが勝ってもおかしくなかった。技術もスタミナもメンタルも、あの人に引けはとらない。見てるこっちからすりゃあ満点以上だったよ」
「でも負けた」
「だからそれは──」
「どれだけ技術やスタミナがあろうと、勝てなきゃ意味がねえ。どれだけ長い時間ラリーを続けようが、決められなきゃ意味がねえ」
「お、大神」
「なにもかも意味がねえんだ」
と、大神は倉持をおしのけて立ち去る。
こののち執り行われた個人戦表彰式に、大神のすがたはなかった。
──令和元年八月十九日。
のちの高校テニス界に伝説と語り継がれる試合がおこなわれた。
対戦は、全国選抜高校テニス大会におけるベスト4常連校として名高い桜爛大附属高等学校三年、如月千秋と、昨年度より突如頭角をあらわした強豪ルーキー校である才徳学園高等部二年、大神謙吾。
僅差ながら勝利を勝ち得たるは、桜爛大附の如月であった。
彼は今大会の優勝をもって、高校テニス出場大会無敗という華々しき伝説を新たにうち立て、高校テニス界を引退。大神率いる才徳学園は、秋季よりはじまる全国選抜高校テニス大会に向けて、あらたな一歩を踏み出す。
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