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彼はいつものように、ルイ・ヴィトンのエレガンスなフランス独特なスーツに身を包んでいた。フィッシュマウスの襟と、ドロップショルダーのシャープなシルエット。少し高めのシェイプ位置とポケット位置が特徴のフランスのスーツを、いつものように皺ひとつ無いエレガントさで着こなしているのだが。
かなり憔悴している様子が見て取れる。
クロードが疲れているように見えるのは、気のせいだろうか。顔に血の気のなく、髪にも白いものが目立つ。
「私の所為だ」、亜美は自分を責めた。
そんな亜美を見つめたまま、スーツの内ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
『サインが欲しい』、しわがれた声で命令すると、胸のポケットに刺した金色のペンを引き抜いて亜美に差し出した。
クロードを見詰めたまま、足が機械的に動いて前に出る。腕をあげると折りたたんだ紙と、金色のペンを受け取った。
部屋の中央に置かれたテーブルに向かい、足がまた勝手に動いていく。そのまま機械的な動きでソファーに腰を下ろすと、ペンを置いて折りたたんだ紙を広げた。
「これは、たぶん辞表だ」、亜美は心の中で呟いた。クロードは優しい男だから、解雇よりはいちだん軽い、辞職にするつもりなのだと思った
『温情に感謝します』、モゴモゴと口の中で謝意を述べると、広げた紙を見た。
サインをする箇所を探すためだ。
そこで亜美の動きが止まった。意味が掴めないと言う顔でクロードを見る。
「これは・・婚姻届です」
咄嗟に、日本語が出た。
秘書の一人が、ミツコに渡す婚姻届の用紙と、亜美の辞職願いの用紙を取り違えたのだろう。
粗忽な人だ。
隣に腰を下ろすと、亜美が広げている婚姻届の用紙を覗き込んだクロードに。小さく震える声で話しかけた。
『紙を下されば、自分で辞職願を』・・作成いたしますと。
そう続けるはずだった言葉が、零れ落ちて来た涙で途切れた。我慢していた涙の堰がきれて、止めどもなく流れ落ちてくる。
何とか止めようと、必死で大きく目を見開いたのに。見開いた眼からも溢れ出て止まらなくなった。
もう、ずっと前の事になってしまったが。
北條との別れの時には、亜美は泣かなかった。必死でこらえた涙が重く心に沈んでも、それでも泣かなかった。
辛くて悲しい別れだった。
それでも、亜美は涙をこらえることが出来た。「アレはそれだけの事だった」と、やっと納得できた。
だが、今は違う!
「どうしよう・・この愛を無くして、ワタシは何処に行けばいいの?」、もうどこにも行けない。
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